二大政党制で進む新聞のスポーツ新聞化
2009年05月28日
社主が自民党のパトロンをきどり、公然と政治フィクサー業にいそしむ読売新聞と、民主党による政権交代をペンで後押しする朝日新聞。
発行部数の減少傾向に歯止めがかからない中で、二大政党制に合わせて読者の囲い込みを図っているのかどうかは知らないが、新聞の報道機関としての使命とは何かを、もう一度きちんと考えるべきかもしれない。
ちょっと昔に、読売新聞の駆け出しの記者が、報道機関の役割について「中立な立場から公正に事実を報道することが新聞の使命だ」と述べていたのに対して、つい、「君は本気でそんなことを真に受けて仕事をしているのか。」と聞き返してしまったことがある。
というのも、彼が席を置く会社の社主は、大野伴睦の番記者となって以来、自民党政治と深く関わり、自民党議員のゴーストライターを務めたり、挙句の果てには児玉誉士夫の下働きまでしているし、自民党政治の重要な局面ではなにかとフィクサー気どりで顔を出してきた。
ちょっと前にも、自民・民主の大連立でゴタゴタしたときも、この社主が絡んでいたことは記憶に新しい。
つい先日(25日か26日)の読売新聞に、自民党が全面ぶち抜き広告を出していた。内容は民主党に対する公開質問状で、よく知られている民主党の弱点、つまり、公約の財源的裏付け、官公労の支持を受けながら公務員改革などができるのかなどについて疑問をぶつける内容のものだ。
しかし、もちろんこの全面広告は、朝日新聞には掲載されていない。
広告収入の減少が著しい中、読売新聞にとっては有難い、自民党の「景気刺激策」だっただろう。
新聞が自らの立ち位置を持つこと自体はおかしいことではない。
イギリスでも、ザ・タイムズとガーディアンは、紙名を聞いただけで論調のイメージが湧くくらい明確な立ち位置を持つ。
また、最近の下院での住宅手当の不正受給をめぐるゴタゴタが、デイリーテレグラフのすっぱ抜きで始まったように、それぞれの新聞は、自らの立ち位置と目線をはっきりさせ、読者をつかむ。
保守でどちらかと言えば上から目線のザ・タイムズ、社会的弱者の視点で社会の不公正さを鋭く指摘するザ・ガーディアンは、その立ち位置から自ずとそれぞれ保守党、労働党との「親和性」が高くなる。
一方で、既存二大政党から距離を置き、第三者的に不正や無駄遣いに目を光らせるデイリー・テレグラフは、自由民主党(英国の)に近いのだろう。
ただ、それは、それぞれの新聞が自らのアイデンティティとして持つ立ち位置と視点からくる政党との「親和性」であって、逆、つまり特定の政党を支援する目的から自らの立ち位置を決めているわけではないだろう。
なので、ザ・タイムズが保守党に辛口の論調で臨むことや、ガーディアンが労働党の政策に極めて批判的なことも珍しくない。
ひるがえって、日本の状況はどうだろうか。
そもそも政党同士が対立軸を見つけあぐねているような状況なので、ましてや新聞は、赤旗や聖教新聞のような特殊なものか、日経のような経済紙を除けば、自らの立ち位置について独自性を打ち出すことは難しいのだろう。
なので、いきおい政党との「親和性」からスタートして自らの立ち位置を決めてしまっているのかもしれない。
これは、日本の新聞が、政治スポーツ新聞化するということだ。
スポーツ新聞なら、ひいきのチームのエラーには目をつぶるか、ドンマイで済ませ、ファイン・プレーは10倍褒めたたえることで読者は満足するだろう。そもそも読者はそれを期待してお金を払っているからだ。
しかし、政治報道で同じことをするのが、クオリティ・ペーパーの使命なのだろうか。
民主国家における報道機関の重要な使命の一つは、民主政治の基本である「自ら考える市民」に仕えることだ。紙面を通じて、「自ら考える」市民を育て、市民の政治感覚を研ぎ澄ますことだ。
先のことを考えずに甘言ばかりで国民の歓心を買おうとしたり、派手なパフォーマンスで世間の耳目を集めることばかりに腐心する政治家の欺瞞をきちんと見抜き、たとえ地味であっても、自分たちの子、孫の代、さらにはその先のことまできちんと視野に据えた国家観、政治観を持つ政治家を見いだせる力を、一人でも多くの市民が身につけるようなコンテンツを提供すべきだ。
その意味で、報道とは、冒頭に引用した駆け出し記者が言うようなナイーブなものではあり得ない。
社会や政治の報道では1+1=2のような単純なものはむしろ少なく、ある立ち位置に立ってこそ見えてくる「事実」が多いし、そういうものに光を当てるためには、報道する側が、そのために必要な視座を持っていなければならない。
しかし、そのような視座は、どの政党を支持するとか、政権交替を後押しするといった短絡的なことから生まれるものではないし、かえって事実を見る目を曇らせるだけだ。
新聞人にとって必要なことは、自分が世に出す紙面を通じて、読者にいったい何を見てもらいたいのか、何を考えてもらいたいのかを再度問い直すことであって、特定のチームばかりひいきして読者の歓心を買うことではないだろう。
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