日銀総裁人事のマスコミ報道に見るマスメディアの大政翼賛会の残影
2008年04月09日
空席が続く日銀総裁の政府による人事案への民主党の対応に関して、クォリティペーパーを自称する日本の新聞は、総じて批判的なようだ。
特に、自他とも認める経済紙の日経が社説で「日銀人事をもてあそぶ民主党」と題して、党内手続きを経て党としての意見を表明することが、あたかも戯言のような言い方さえしている。
確かに、日銀総裁の空白という事態は、それだけを取り上げれば問題だろう。いるべき人がきちんといた方がいいに決まっている。
しかし、物事、特に政治や、国のあり方を議論しているときに、個々の問題だけを取り上げるのは、自分のテリトリーのことしか見えない「小役人」的議論だ。
特に日本の統治機構の隅々まで張り巡らされた財務省の「見えない支配」のくびきから、日本の行政を自由にしなければならない、という議論をしているときに、空席がしばらく続き、G8か何かの会議に一回欠席するかもしれない、程度のことを、さも国家の一大事のように書き立てる新聞の「良識」とはいったい何だろうか。
経済一流、政治二流と言われる。経済が一流かどうかは、日本の経営者たちを見渡すと、にわかに賛同しがたいが、政治がその下を行くということだけは正しい。しかし、その低レベルの政治を形づくってきたのが、この日経の社説に表れたような態度ではないだろうか。
一流の政治とは、短期的な混乱を恐れて長期的にしなければならないことを後回しにすることではなく、どんな混乱やくだらないメディアの批判があろうとも、やらなければならないことを、強い意志とリーダーシップを発揮してやり遂げることだ。
ことあるごとに役人の事なかれ主義を嘆く新聞が、国家のあり方に関する議論を、自らの事なかれ主義で曇らせてしまうのは、いったいどうしたことだろうか。
冒頭に引用した日経の社説は、「人事はあくまで人物、能力、実績などを重視して判断すべきもの」だとして、今回の民主党の対応を「残念でならない。」と断じている。
もし、これまでの3回の政府提案が「人物、能力、実績」を重視して提出されたものであったとすれば、なぜ、必ずその一角を財務省OBが占めていたのであろうか。日銀人事案で「人物、能力、実績」を重視すると、どうしても財務省OBが入らざるを得ないほど、経済・金融の世界というのは、人材砂漠なのだろうか。
決してそんなことはないのであって、そこにはやはり日銀の意思決定プロセスに財務省が噛む必要があるという、国のあり方に関する与党の「思想」があるからであり、それに反対するのは、それはそれで民主党の「思想」なのだろう。(もっとも、事実は、財務省の指定席ポストを減らしたくないという財務省関係者の組織防衛的な利害が根底にあるのであろうが。)
だから、日経新聞が真剣に一流政治の実現を目指しているのであれば、その対抗しあう二つの思想の是非について、読者に意見をのべるべきであり、また、「人物、能力、実績」を重視すると、他をおいても渡辺・前財務官「しかない」ということを示すべきであって、なぜそうなのかという根拠すらきちんと示さずに「もてあそぶ」だの、「残念でしかたがない」などといった情緒的な表現で総括するのは、政治の下を行くマスメディア三流という陰口を地で行っているとしか思えない。
■民主、渡辺副総裁案に不同意
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