起こるべくして起きた「あってはならない事」
2010年10月02日
でっち上げの供述調書へ署名するよう恫喝することを「捜査」と勘違いし、それがままならないとわかると、証拠を改ざんしてまで厚労省の女性局長の逮捕を強行した前田恒彦・大阪地検特捜部主任検事。
この前田検事からFD改ざんの報告を受けながら、テキトーに誤魔化した報告を上司にした特捜部長を、最高検察庁が捜査している。
ところが今度は、これまでと掌を返したように「調書だけに依存した捜査をするという過ちは繰り返さない」といって、身内の捜査だけは急に「正しい」捜査を「徹底」させるという。
世間の反応を計りながら、組織防衛のために尻尾をどこまで切るのか、慎重に見極めている検察に、自己改革などが果たしてできるのだろうか。
裁判長である遠山の金さんが、段上からあれこれ尋問してもお白州の悪党どもはなかなか白状しない。
視聴者がイライラし始めたところを見計らうように、突然、金さんは「てめえ。」と乱暴な口調に豹変したかと思うと、法廷内であるにもかかわらず、啖呵を切り、背中の刺青を晒す。
まるで裁判長自らを法廷侮辱罪に問うべきではないかという暴挙だが、事はそこで止まらない。
有罪の証拠、被告人の供述のいずれも不十分であることを棚に上げ、「おまえらの悪事はこの桜吹雪がお見通しなんだよぉ!」と、何の証拠能力もない刺青だけを唯一の根拠に有罪を言い渡すのだ。
ところが、「こんな理不尽な裁判があるかよ!」という抗議がテレビ局に寄せられたという話は聞いたことがない。
それどころから、金さんファンは、近代刑事訴訟法の原理の一つである証拠裁判主義をあざ笑うかのようなこの暴挙が毎週繰り返されることを楽しみにし、それを見ることで溜飲を下げているのだ。
なぜ金さんファンが溜飲を下げるかといえば、悪事を働けば簡単にお縄になる庶民と違って、悪徳商人や悪代官達は、その金と地位、悪知恵を総動員することで巧みに法の網をくぐりぬけ、ぬくぬくと肥え太っていると信じているからだ。
そして、江戸時代と平成の時代という違いはあるにせよ、この庶民の皮膚感覚は今も変わらない。
「旨いこと」をやってたちまち短期間の間に巨富を築くような奴は悪いことをやっているに「決まっている」し、政治家や高級官僚は「旨いこと」をやって腹黒く肥え太っているに「違いない」のだ。
検察の捜査は、「スジ読み」をもとに行われる。
目の前にある積まれたダンボール箱の中に眠る膨大な押収資料の中に隠されている「悪の構造」を読み解き、その読み解いたスジに沿って裏付けとなる証拠を探し、関係者の供述をとるのだ。
そして、その「スジ読み」の基礎にあるのは、このような庶民の皮膚感覚だ。
ホリエモンの起訴の前に就任した検事総長は、就任の際に「正直者が馬鹿をみるような社会にしないために検察がしっかりしなければならない」と挨拶したが、ホリエモン事件の「スジ読み」の基礎には、このような検察の「正義感」があったのだろうし、逮捕されたときでさえ、舛添厚労大臣から「働く女性の星だった」と賞賛された村木元局長の事件を捜査した検事は、「厚労省の腐った連中を叩き直してやる」と豪語していたという。
古くは、時の齋藤實内閣を総辞職に追い込んだ帝人事件でも、東大法学部を二番で卒業して渋澤財閥の番頭となり、台湾銀行が担保として保有していた帝人株の値上がりに目を付け、これを国から払い下げさせるというアイデアを思いついた永野護をはじめ、帝人社長や台湾銀行頭取、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴されたが、東京地裁は「空中ノ楼閣、水中ノ月ヲ掬ウガ如キ事件 証拠不十分ニアラズ、犯罪ノ事実ナキナリ」という異例の文言で全員に無罪を言い渡している。[1]
さらに、この風流すぎる判決文の真意が伝わらないと心配したのか、藤井五一郎裁判長は判決後、わざわざ「今日の判決は証拠不十分ではありません。全く犯罪の事実なしなんですからね。この点は特に間違いのないように」というコメントまで出して、検察によるデッチ上げであることを念押ししている。[2]
多くの有意の人材のキャリアを挫折させたこの事件では、逮捕者の拘留期間は200日に及び、拷問による自白の強要もあったといわれているが[3]、この事件を担当した黒田検事も「世の中は腐っている。俺が天下を革正しなくては、いつまでも世の中は変わらない」と豪語していたという。[1]
最近では、小沢一郎・民主党幹事長(当時)の事件で、東京地検特捜部の検事が、「押収品の返却があるので取りに来て欲しい」と呼び出した民主党の石川議員の女性秘書を、突然、「被疑者として呼んだ。」と言って取調べ室に「監禁」し、小沢幹事長と石川議員が共謀していたことを認めるよう迫り、延々10時間も恫喝しし続けたことが報じられている。[8]
その女性秘書は、保育園に預けている3歳と5歳の子供を迎えに行かなければならず、自分が行けないときは夫に代わりの迎えを頼む必要があったにもかかわらず、帰宅させるどころか、電話すら使わせなかったという。
「保育園に行かせてください。その後、また戻ってきます。せめて電話だけでも入れさせてください。」と繰り返し懇願する女性に、取調べに当たった民野健治検事は、「なに言っちゃってんの。そんなに人生、甘くないでしょ。」と言ったという。
そして、引き続き「何でもいいから認めればいいんだよ。」、「早く帰りたいなら、早く認めて楽になれよ。」などと延々10時間も責め続け、結局、帰宅が許されたのが午後10時45分。保育所が閉まった7時から4時間近くが経過してからだった。
民野健治検事の暴言が、いかにも2ちゃんねらーっぽいところも気になるが(笑)、それよりもこのような人権侵害が令状もなしに、しかも検察の中の検察ともいうべき東京地検の検事により強行されていること、そして本来なら曇りのない目で事実関係を捜査すべき検察が、「何でもいいから認めればいいんだよ」と責め立てるというのでは、まったく戦前の特高と変わるところはない。
この件について、その後、東京地検がきちんと調査をしたという話は、残念ながらついぞ聞いたことはない。
「働く女性の星」だった村木・元局長(現内閣府政策統括官)の事件で主任検事を務めていた大阪地検特捜部の前田恒彦検事によるFD改ざん事件に関して、「あってはならないことだ」、「あり得ないことが起きた」というコメントが繰り替えされている。
「あってはならないこと」というのはその通りだろうが、「あり得ないこと」かといえば、決してそんなことはなく、上に述べたようにこれまでも似たようなことは何度も繰り替えされてきた。
それどころか、検察内部の抗争を背景とした逮捕合戦すらあったし、検察庁の調査活動費が裏金として使われていることをテレビ番組で公にしようとした矢先に逮捕された三井環(大阪高等検察庁公安部長)のような事件さえあった。
検事が証拠を捏造したり、供述調書をでっち上げて署名を迫ったり、組織防衛や自分の昇進のために逮捕権を濫用することは、あり得ないどころか、十分あり得ることだし、これからも繰り返され続けるることだろう。
「最近派手にやっているあいつは影で悪事を働いているに違いない」という「わかりやすい」ストーリー立てに基づいて関係者の「供述」を集められ、気がついたときには目の前に逮捕状が広げられていた…といった類のことは、これからも十分起きる可能性があるのだ。
今回の前田検事のFD改ざん事件の検証の中で、似たような事件が繰り返される背景が様々指摘されている。
例えば、「スジ読み」ありきで捜査を進める今の手法では、予断に基づいて捜査が歪められやすいとか、立証を調書に依存し過ぎるあまり、捜査を担当する検事が調書の内容を「スジ読み」に合うように都合よくデッチ上げる誘惑に駆られやすいといったことだ。
しかし、人を殺したり、物を盗んだりといった犯罪ならともかく、厚いカーテンの裏側で密かにやり取りが進められる贈収賄や企業犯罪を立証するためには、どうしても関係者の証言を丹念に積み上げるという立証手法をとらざるを得ないだろうし、膨大な資料の背後に眠る犯罪の構造を見出すためには、「スジ読み」も必要だろう。
それらが怪しからんと言うのは簡単だが、そうすれば社会に深く潜行する巨悪そのものを摘発すること自体ができなくなってしまうだろう。
むしろ問題なのは、スジ読みと証拠資料の矛盾をついたり、スジ読みと憶測を取り違えているような場合にどうしてきちんとチェックが入らないのかということの方だろう。
刑事訴訟法は検事調書について、裁判官による供述調書に準ずる証拠能力を認めており(第321条第1項第2号)、証人が公判で供述調書と異なった証言をした場合であっても、「特別の情況」があるときは、検事調書を証拠とすることができるとされている。
なぜ、検事調書にこのような特別の証拠能力が認められているかといえば、それは、対審構造で審理が行われる法廷で中立的な立場で判断を行う裁判官ほどではないにせよ、検察官も起訴に先立って準司法的な立場で警察による捜査をチェックするのが本来の立場だからだろう。
起訴するかどうかの判断が検察官だけができることとされているのも、まさに、捜査機関が上げてきたものを、少し距離を置いた検察官に客観的なチェックをさせるという意味なのだろう。
そうやって見ると、冒頭で述べたように、検察官と裁判官を兼務するような遠山の金さんほどひどくはないにせよ、特捜部というのは、一次的な捜査機関と、本来はそれをチェックするはずの本来の検察の機能を兼務しているわけで、稟議書の起案者と決裁者が同一人という、チェック機能としては意味をなさない構造となっていることになる。
したがって、特捜部が捜査を行う場合、検察内部のチェックが重要なはずだが、これが怪しい。
村木・元局長の事件でも、家宅捜索で資料を押収した翌日にはFDの日付けがスジ読みと食い違う日付けになっていたことを、特捜部で捜査にあたっていた検事が発見し、主任である前田検事に報告していたが、前田検事がこの報告を握りつぶして上司に報告せず、挙句の果ては完全な見込み違いを隠したまま、村木・元局長の逮捕を強行していたと報道されている。[6]
同僚検事が間違いに気づいても、それが途中で握りつぶされて上層部に伝わらないという情けない仕組みでは、チェック機能としてはまったく心もとないものだ。
その結果、逮捕する前から冤罪でわかっていたにもかかわらず、強引に逮捕したこの事件は、単なる証拠隠滅罪どころでは済まされないだろう。
さらに、特捜部が検察の権力の源泉となっていることを背景に「特捜こそが検察だ」という特捜至上主義のカルチャーがはびこっていることが事態をさらに悪いものにしている。
検察・法務は、法務官僚である赤レンガ派と、検察庁畑を中心とする現場派に色分けされているが、特捜検事は、現場派検事としての出世の登竜門であり、検察・法務の最高幹部の多くが特捜部経験者だ。
今回の事件でも、前田検事によるFD改ざんを内部告発した二人の検事のうち、美人女性検事として有名な塚部検事は、捜査方針をめぐって前田検事と対立し、特捜部から公判部に「飛ばされ」ている。[7]
もう一方のロン毛検事こと國井検事は、特捜部に「栄転」する話があったが結局、沙汰なしとなったということだ。[4]
第一次捜査機関である特捜部の捜査を、本来の検察機能がチェックするどころか、特捜部の顔色を伺いながらビクビクしているというのが実情なのだろう。
村木・元局長の事件でも、決められたルールに反して勝手に取り調べメモを廃棄したりと、好き放題なことをしているのも、「誰も俺達を止められないぜ!」という驕りがあったのだろうし、FDを改ざんして時限爆弾にし、別の被告人である元係長側に「返却」したのも、その延長でしかないのだろう。
特捜部の捜査については内部チェックが働きにくいとすれば、外部のチェック、特に報道機関のチェックはどうかといえば、こちらも甚だ心もとない。
民主党政権になるまでは、記者会見への参加は、司法記者クラブに所属する主要紙・テレビ等の記者だけに許された「特権」であり、所属していない(できない)記者にとっては、記者会見で何が話されたかはもちろん、いつ開かれるのかさえ知らされず、検察は「まさにブラックボックス」だったという。[5]
その理由は、検察サイドが「情報はすべて司法記者クラブに対してのみ提供している」ことを徹底しているからだが、なぜそうかと言えば、言うまでもなく報道機関に対する睨みとコントロールを効かせるためだ。
検察から睨まれるということは、すなわち、この情報の流通経路から外されるということであり、それは報道機関にとって死活問題だ。
この検察の密室記者会見も、政権交代を期に司法記者クラブに所属していないジャーナリストにも開かれることになったが、それはおよそオープンにするとはいえないほど、形だけの開放だった。
「オープン」になったはずの記者会見の事前登録の要件は、「直近3か月において執筆・掲載した刑事事件に関する署名記事等(少なくとも毎月当たり1記事、計3記事以上)の写し」と「記者としての十分な活動実績・実態を有していることについて、各会員社において発行した証明書」を添付することを求めていたという。[5]
これでは、新聞協会や雑誌協会に所属していないフリーランスのジャーナリストは事実上、締め出されているのと同じだろう。
挙句の果てに、この事前登録申請は5月11日で締め切られて、その後、追加の登録申請は一切受け付けられていないという。
さらに、「オープン化」された実際の会見も驚くべきものだ。
他省庁の会見では当然に認められる撮影、録音が禁止だというのだ。
撮影はともかく、記事の正確さを確保するために必要な録音まで禁止だというのだ。
これでは、記者会見をオープン化するという民主党政権の方針に面従腹背するための、名ばかりのオープン化と言うべきだろう。
さらに、司法記者クラブに所属する記者であっても、お互い「競争関係」に置かれる。
記者会見では最低限のことしか話してもらえず、しかも他社と同じ情報ではニュース価値は低い。
なので、他社が報道しない独自のネタを求めて、各記者が夜討ち朝駆けでしのぎを削るのだ。
検察サイドは、独自ネタを求めて大口を開けている記者たちに個別に、「君だけにはそっと教えてあげよう」と囁き、美味しいネタを裏で流すのだ。
価値ある特別のニュースねたを貰えるためには、担当検事にどれだけ食い込んでいるかが勝負だ。
そして、食い込むためには、検事とどれだけ「気の置けない特別の関係」になれるかにかかっている。
そんな、「特別の関係」にある記者が、せっかく耳打ちされた「特別のネタ」の中身についてあれこれ批判的にチェックを加えることは、せっかく築いた「特別の関係」にヒビを入れることになりかねない。
いきおい、こういった「特別の関係」でリークされる検察情報が記者によって鵜呑みにされ、リークした検察サイドの思い通りに報道されていく。
小沢一郎・元民主党幹事長の事件についても、検察サイドからのリークと思われる「情報」を各報道機関が競って報道する中で、決定的な証拠がないままに、国民の間で「小沢はクロ」という心証が事実上形成されてしまったのも似たような事情だろう。
これに関連して、週刊文春2010年10月7日でジャーナリストの上杉隆氏が興味深い話を披露している。
同氏が上記の東京地検特捜部による石川議員女性秘書監禁事件を報道する際、今やブログ等で「有名人」になってしまった民野健治検事の名前を掲載したところ、検察関係者が「ほとぼりが冷めたら絶対に上杉を引っ掛けてやる」と言っているのを聞いた司法記者クラブの知人などから「大変なことになるぞ」と忠告をされたという。[8]
都合の悪い報道をした者に対して国家権力をもって意趣返しをするということを、法を厳格に執行すべき法曹が平然と記者クラブの記者に公言するという国は、果たして法治国家なのだろうか。
そして、そういう国家権力を背景にした恫喝に首をすくめ、媚びへつらい、ジャーナリストとしての魂を売ってまでしてリークしてもらったネタを無反省に記事にするジャーナリズムの使命とは、いったい何なのだろうか。
前田恒彦検事によるFD改ざん事件を機に特捜解体論が主張されているが、これは交通事故が頻発することを理由に自動車を廃止することを主張するようなものだろう。
メリットをデメリットがはるかに上回るような場合は廃止されるべきだろうが、無視できないメリットがあるときには、デメリットを小さくすることをまずは考えるべきだろう。
特捜検察のメリットといえば、それは言うまでもなく、「権力をものともせずに社会の巨悪を摘発する専門家集団」ということだろう。
これを、今の警察に求めることは、まったく不可能というほかない。
とすれば、デメリットは何か。
それはこれまで見てきたように、本来は二次捜査機関として一次捜査機関の捜査を客観的にチェックすべきはずのものが、一次捜査機関として捜査に当たるために、チェック機能が著しく不十分になってしまっているということだ。
そして、検察内部においても有効にチェックが機能する仕組みがない上に、本来、権力の監視人たるべきジャーナリズムが情報コントロールを受けているために、チェック機能を果たせないでいることだ。
したがって、特捜検察の改革の基本は、今ホットな議論が続けられ、検察が執拗に抵抗している捜査の可視化といった改革のほかに、特捜検察をきちんと一次捜査機関の立場において、これをしっかりとチェックできる仕組みを設けるということだろう。
もっとも望ましいのは、検察庁から切り離して名実ともに一次捜査機関にするということだろうが、組織として切り離したところで人事制度でつながっていれば結局は同一組織と同じようになってしまい、単に新しい組織を増やことで結果的に検察の焼け太りになるだけかもしれない。
ならば、警察の捜査に対するチェックと同じようなチェックを特捜部の捜査に対してしっかりと行えるような仕組み、例えば査察部を検察内部に設けるべきだろう。
そして、特捜部の捜査に違法なものがあれば、その二次捜査機関だる査察部が、今回のFD改ざん事件の捜査のようなことを厳格に行えばよいだろう。
大事なことは、検察内部における特捜部と、この二次捜査機関たる査察部の間の力関係だろう。
「特捜にあらずんば人にあらず」といったカルチャーが支配するようであれば、このようなチェックもおのずと甘いものにならざるを得ない。
むしろ、「特捜検事も黙る査察部検事」くらいの力関係にして初めてきちんとしたチェックが機能するだろう。
さらに大事なのは、特捜検察の検事たちが民主国家における自分達の役割を再定義することだろう。
熱血特捜検事がよく口にしてきたような「腐った世の中を俺達がきれいにしてやるぜ!」みたいな役割は、民主的に選ばれた政治家の仕事であって、そういう民主的正当性のない「ただの秀才集団」の仕事ではない。
むしろ民主主義のプロセスがフェアに機能するよう、アンフェアなことをして民主主義を歪める者たちを取り締まったり、高度な仕掛けを駆使して法網を潜り抜け、市場経済を歪めようとする連中を取り締まるといったように、日本という国家が基礎をおく自由主義経済や民主主義といった基本価値を擁護するアンパイヤのような存在でなくてはならない。
ITバブルの寵児たちのように一夜にして富を築く奴は裏で悪いことをしているに違いないという、やっかみのような庶民の思い込みや、確たる根拠もなくマスコミが胡散臭いと書きまくり、それを読んだ庶民も「悪そうな奴だな、検察は何をやってんだ」とプロレスの悪役のような存在に対する庶民の欲求に安易に迎合するような「劇場型捜査」や「国策捜査」は厳しく戒められなければならない。
それは、特捜検察が捜査のプロ集団でしかないという身の程をわきまえない思い上がりだろう。
身の丈を超えたことをしようとし過ぎるからムリ筋の捜査を強行して罪もない人々を苦しめ、挙句の果てに世の中の信頼を根こそぎ失ってしまうのだ。
現在、法務省において、呆れ果てた今回の事件を検証する検討会が進められているが、決して問題を今回の事件の関係者だけに限定することなく、これまで多くの人達から指摘され続けてきた事件、例えば民野健治氏による女性秘書監禁事件や、元大阪高等検察庁公安部長の三井環氏が逮捕前に公表しようとしていた事実などを含め、検察が内部に溜めつづけてきた膿を切開して出し尽くすことが必要だろう。
そうすることで、戦前から時が止まってしまったような検察という組織の構造的な問題に民主国家の光を当てて、暗く湿った影の中で蠢く害虫たちを根こそぎ退治しなければならない。
冒頭で述べた、しち面倒くさいことはすべて背中の桜吹雪でごまかす遠山の金さんの対極にあるものは、多分、刑事コロンボだろう。
丁寧な言葉づかいで被疑者に質問を重ね、その供述を丁寧にフォローする中で、最初は細かな矛盾点を指摘する。
そして、それに対する釈明を被疑者本人にさせることで、次第に大きな矛盾点を導き出し、最後は言い逃れのできないところに被疑者を追い込んでいく。
そのプロセスは、思い込みで作り上げられた調書へ署名するよう、密室の取調室で机を叩きながら「とにかく認めればシャバに出してやるよ。」と恫喝するのではなく、多くの場合は被疑者宅の豪華なリビングルームで、まったくの任意のやりとりの中で行われる。
令状もないのに、「子供の保育園のお迎えに行かせてください。」と懇願する女性を監禁して平然としている民野検事と違い、刑事コロンボは、被疑者から「忙しいのでお引取りを。」といわれると、「あぁ、お時間をとらせて、すいませんでした。あ、そういえば、最後にひとつだけ。」と言って、決定的に重要な質問を投げかけて、被疑者宅を去る。
わが子の保育園のお迎えを心配する母親をせせら笑い、令状もなく監禁し続ける民野健治氏のような検事の捜査力や人間性のレベルが、冴えない格好の刑事コロンボのレベルに到達するほどに日本の検察が改革される日が、いつの日か来ることがあるのだろうか。
その日を迎えるまでは、日本司法の「戦前」は終わらないのだろう。
[1]月刊日本「空中の楼閣、水中の月を掬うが如し」
http://www.gekkan-nippon.com/syukan/index.htm
[2]【次代への名言】波瀾の政治家編(24)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100811/acd1008110340001-n1.htm
ちなみに、この裁判長が粋人であったことを伺わせる逸話がここ( http://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/30627665.html)に紹介されている。
[3]ウイキペディア「帝人事件」
[4]「暴かれた検察の大罪」週刊朝日 10月8日号20頁
もっとも、[7]にあるように、國井検事自身にもいろいろ「いわく」があるようなので、この一件だけが原因かどうかはわからない。
[5]「録音・撮影が認められない”東京地検会見”は記者会見とはいえない」週刊金曜日ニュース
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=262
[6]朝日新聞2010年9月30日
[7]週刊新潮2010年10月7日142頁
[8]「子供”人質”に女性秘書『恫喝』10時間」週刊朝日2月12日号。
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