アメリカでは新聞の凋落が痛々しい。
全米第4位の部数を発行していたロサンゼルス・タイムズ、8位のシカゴ・トリビューンなどが大幅なリストラを余儀なくされた。
ちょっと前のNHKの特集では、かのニューヨーク・タイムズでさえ、ピューリッツァー賞を受賞した記者までもが首を切られる大規模なリストラで閑散としている社内が映し出されていた。
日本でも、新聞の売上げが、最近10年間のピークである2005年と比較すると、1割超減少している(『日本の論点2010』文藝春秋社)。新聞広告だけみればもっとひどく2000年をピークに減少傾向で、2008年は前年比12.5%の落ち込みという(同)。
さらに、今年はアメリカを中心に電子書籍が大ブレークすると予想されている。
アマゾンやソニーの電子書籍リーダー、最近アップル社が発表したiPadや、今後続々と市場投入が計画されているスレート型PCのように、通勤電車や喫茶店で手軽に電子書籍を読めるガジェットが登場することで、電子書籍普及の環境が整えられつつある。
筆者も電子書籍を愛用している一人だが、どこでも読めて、保存に場所をとらない電子書籍の便利さを痛感している。
この電子書籍は、紙もインクも使わず電子データだけで製作されているので、コンテンツさえ用意すれば、もちろん個人でもできる。
後は、それを流通し、課金するプラットフォームさえ用意すれば、個人でも出版が容易になるはずだ。
裏を返せば、これまで書籍というモノの生産と流通で食べてきた人たち、すなわち出版社、印刷会社、書籍流通の取次ぎ、書店などのビジネスが大きく脅かされることになる。
アマゾンのようなオンライン・ブックストアが主流になった時点で多くの書店が淘汰されてしまったので、電子書籍の普及はそのとどめとなる可能性が高い。
さらに今回は、印刷や取次ぎも含めた大規模な業界再編となることは避けられないだろう。
このようにネット経済の発達にともなって、これまでわが世の春を謳歌してきた業界が次々と崩壊の危機に瀕し、ネットに対する怨嗟の声を上げている。
毎日新聞をはじめ、新聞がネット社会の負の面ばかりを強調したキャンペーンを張りたがるのは、彼らの恨み節だというのがもっぱらの見方だ。
これに対して、ネットを最大限活用した新たな文化が興隆しつつある。
活字の分野ではブログ、携帯小説、ネット小説などだ。
最近では、ツィッターを活用した現場報道も盛んになり、これからは電子書籍による個人出版が普及するだろう。
そして、これらのサービスのほとんどは無料で提供されている。
動画では、膨大な電気を使って放送する民放ではとてもお目にかかれないようなすばらしい動画がフリーで観られる。
日々視聴率競争に明け暮れ、他社よりも低い視聴率で減点されることばかりを恐れるサラリーマン・プロデューサーたちが安全策ばかりとるものだから、どの局も似たようなタレントがテキトーにペラペラ喋るだけの中身のない番組ばかり垂れ流ししていて、観る方は辟易させられている。
なので、YouTubeにアップされた個人作品の素人作品ならではの荒削りさは、かえって新鮮なくらいだ。
言うまでもなく、これらはすべてフリーで視聴できる。
音楽の分野でもフリーが勃興している。
フリーの音楽といえば、ちょっと前までは違法ダウンロードのことだった。
しかし、今は合法的にフリーの音楽を配信するサイトが増えてきた。
筆者もそれらのサイトの愛用者の一人だ。
フリーで聴ける音楽なんて、しょせんつまらないものばかりだろうと思う人もいるかもしれないが、むしろ、ほんとにこれがフリーなのかと驚く作品が多い。
ミュージシャンがタダで音楽を配信してしまったら食っていけないじゃないかと心配になるが、世界のアーティストたちがこぞってこのサービスを利用し、自分たちの作品を世に知ってもらうために配信している。
ネット配信で彼らを知ってファンになった人たちがコンサートに来てくれることを期待しているのだ。
そして、彼らのコンサートに通ってもらえるようになると、オリジナル・グッズを買ったりして、サポーターになってくれるかもしれないのだ。
インターネットの発展で没落する既存のメディア企業と勃興する新たな市民文化。
クリス・アンダーソンはビジネスモデルとして「フリー」で論じたが、より重要なことは、インターネットで提供されるフリーのサービスによって、既存のメディア企業によって牛耳られ、支配され、コントロールされてきた文化が、やっと市民に解放されようとしていることだろう。
これまで、自分が書いた文章を人々に読んでもらうことは、とても大変なことだった。
既存の活字メディアはほとんどがプロの文筆屋のものだった。
新聞紙面は記者かコラムニストのもので、素人の文章が載るのはせいぜい「読者の声」くらいだ。
読者の目に触れる活字の流通をほぼ独占的にコントロールしてきたメディアは、自分たちが描いたストーリーに沿った報道を流しがちだ。
「やらせ」や捏造記事、番組が後を絶たないのは、事実に見せかけて作り上げられたストーリーを読ませて金を儲けるというビジネスモデルから抜けきれないからだ。
出版などは夢のまた夢。
特に最近では、リスクを恐れる出版社や取次ぎのため、ベストセラー作家以外の新人作家にとってはますます狭き門になりつつあるという。
新しい作家を発掘してリスクをとるよりも、確実に売れるベストセラー作家の二番煎じばかり狙って、結果としてつまらないものばかり書店にならぶようになったのは、大量に電気を消費し、恐ろしいほどのCO2を排出しながら、どこも似たようなくだらない番組ばかり垂れ流している民放と同じ構図だ。
自費出版という手段もあるが、稼働率の下がった出版社が儲けを稼ぐためのビジネスと化しているため、目が飛び出るような金額を請求され、最近では、出版したいという人の夢を食い物にするあこぎな業者も多い。
それに引き換え、日々の思いついたことをブログにしたため読んでもらうだけなら、誰でも簡単に、しかも無料でできる。
無料のブログサービスを提供する企業は、それこそ無数にある。
ちなみに筆者が利用しているこのサービスも無料だ。
一からホームページ製作をすることも、安価なホスティング・サービスが普及したために、わずかな費用でできるようになった。
今後、電子書籍が主流になれば、これまでのように、ぼったくりビジネスのような自費出版に何百万円も払う必要がなくなり、パソコン一台あれば、誰でも安価に手軽に出版できるようになるだろう。
これによって、これまで既存メディアの狭き門にはじかれ続けてきた人たちの文章も読むことができるようになった。
既存メディアが勝手に創作したストーリーに沿った事実ばかり報道しようとしても、それが虚構記事であることをブログや「2ちゃんねる」で、ニュースソースにもっとも近い人たちが暴くことができるようになった。
動画作品の公開も、これまでは素人の出る幕はなく、プロだけに許された文化表現だった。
しかも、そのプロでさえ、映画作品の流通システムに食い込むことは至難の業で、どんなに優れた作品であっても、流通を牛耳っているメディア産業に認められないものは、人々の目に触れることさえなかったのだ。
それが今では、素人でも、デジタルビデオカメラで撮影し、パソコンで編集し、YouTubeにアップロードするだけで、優れた作品なら何万、何十万人という人が観て、コメントを残してくれる。
そして、これらすべてが無料のサービスとして提供されているのだ。
音楽も状況はまったく同じだ。
これまでは、自分の音楽を多くの人に聞いてもらえるのは幸運中の幸運でしかなかった。
音楽レーベルに売り込んで認めてもらうか、放送関係者の目にとまるという想像を絶するような幸運に恵まれない限り、人々に広く作品を聞いてもらうことなど、普通のミュージシャンには望むべくもない話だった。
せいぜいできることといえば、駅前や街角で大道芸として披露するくらいだった。
それが、無料音楽配信サービスのおかげで、誰でも自分の作品を世界に向けて発信することができるようになったのだ。
最近筆者は、
このページでLullというグループに出会った。
南仏出身の彼らの歌は、パリのカフェなどで歌っているところを偶々耳にすることくらいでしか聴くことができなかったが、インターネットのおかげで、遠く離れた日本に暮らす筆者が通勤電車の中で聴くことができるのだ。
フリーの音楽配信サービスがなかったこれまでなら、あり得ないことだっただろう。
少し前の新聞インタビューで、ミュージシャンの坂本龍一氏が、「今ならとてもプロとしてやっていく自信がなかっただろう。」という趣旨のことを述べていた。
誰でもネットで音楽を発信できるようになって生まれた膨大な数のミュージシャン達と競う自信がないというのだ。
優れた音楽を生みだし続けた坂本龍一氏をしてそう思わせるほどの、ミュージシャンの爆発的増加なのだ。
大事なことは、これだけの数のミュージシャンが新たに生まれたということではなく、これまで音楽文化が少数のメディア企業によって牛耳られていたために日の目を見なかった無数のミュージシャンたちが、発表の場、活動の場を与えられたということだ。
逆に言えば、文化が一部の企業によって牛耳られていたために、これだけの人たちの創造性が日の目を見ることなく、チャンスを与えられることなく、そして人々の耳に届くことなく、無駄にされてきたということだ。
活字、動画、音楽。
それぞれの分野で凋落を余儀なくされ、リストラに苦しむ企業の呻きは、裏を返せば、これらの文化を真に市民に解放するための革命によって滅ぼされようとするアンシャンレジーム(旧体制)の苦悶の叫びなのかもしれない。
これまで、それぞれの文化領域を絶対的な権力で支配し、人々が読むもの、観るもの、聴くものを決定し、アーティストたちの生殺与奪の権を握ってきた者たちに対して、インターネットの力で人々が革命を起こしつつあるのだ。
何を読み、何を観て、何を聴くかは、私たちが決めればよいことだ。
誰もが文化を発信し、そして私たちが何を楽しむかを自己決定する。
そんな当たり前のようなことが、インターネットが生み出したフリー経済のおかげでようやく実現しようとしているのだ。
これまでは中世の暗黒社会のような文化産業が、ネットの力を得ることでようやく近代市民社会へと脱皮しようとしているということだろう。
このような流れに対して、アンシャンレジーム側からの反撃が行われようとしている。
広がりつつあるニュースの無料化に抗うために、これまで記者クラブを独占してきた既存メディアが、民主党が推し進めようとする記者会見の公開に執拗に抵抗したのは人々の記憶に新しい。
このような抵抗の裏には、記者クラブという行政情報の「出口」を独占することで新聞有料化の「付加価値」にしようという期待があるのではないかと勘ぐりたくなるような動きがあるとと、元毎日新聞記者の佐々木氏が論じている。[2]
また、最近では、電子書籍に統一規格を導入しようと、総務省、経産省などが官民共同の懇談会を立ち上げたと報道されている[1]。
表向きは電子書籍の普及を目指すということだが、その実は電子書籍の普及によって「中抜き」を恐れる中小出版の保護の狙いがあるという。
電子書籍のおかけで、誰もが文化を発信し、誰もが受け取る文化を自己決定するという文化の民主化を進めることができるというのに、文化の民主化よりも企業の既得権益を優先しようとするのだから、「民主党」の名が泣くというものだ。
ネットの最大の恩恵は、サービスがタダになることそれ自体ではなく、これまでメディア企業たちによって支配・コントロールされてきた文化を、ネットの力を背景に人々の手に取り戻すことだ。
この文化の民主化というネットの最大の成果に対して不毛な抵抗をしようとする既存メディア企業と、「民主」というイカサマな看板を掲げる政党の試みに対して、市民は徹底的な監視の目を向ける必要がある。