官僚内閣打破のための菅試案の出来ばえ
2009年06月16日
中央公論7月号に民主党の菅・代表代行が、「民主党政権のめざす国のかたち」と題して、今度の政権構想の要となる官僚主導政治打破の処方箋を公開している。
今、霞が関で最も読まれているであろう記事の出来栄えは、果たしてどうであろうか。
代表「代行」のくせに出しゃばった真似をすると、一部の民主党関係者には評判が悪いようであるが、1週間も費やした「イギリス留学」の成果を感じさせる、なかなかの出来栄えではないだろうか。
自らの入閣体験も踏まえ、官僚主導政治がどのようなメカニズムによって構成されているか、簡潔でかつ的を得て示していると思う。
代表が売りつける友愛ソフトクリームで口の中が甘すぎると感じる人は、これで口直しができるかもしれない。
日本は昔から番頭政治だ。
本来は家長の雇われ人でしかない連中が、組織の切盛りを熟知し、差配することで実権を握る。
天皇を助ける摂政が権力を握り、天皇の妻のオヤジが権力を握る。
殿様の権力を背景に家老が実権を握り、天皇の統帥権を盾に軍部が権力を行使する。
それは、権威というのは実際にはなかなか使い物になからないが、日々組織を動かす知識と能力、そして人を動かす力こそが実質的な権力だからだ。
日本の官僚主導政治とは、政治との関係において、この番頭政治に他ならない。
そのような構造を根元から断ち切ろうという構想の方向性は、ほとんどイギリスの「受け売り」のようなところはあるものの、大筋において間違ってはいないだろう。
特に、予算査定権という「究極の権力」にメスを入れることは極めて重要なことであるが、それと同時に最も難しいことだろう。
霞が関の番頭群の中でもとりわけ「うるさ方」といわれる財務官僚のタガが外れて、本当に財政規律を維持できるのだろうか。
今でさえ出来ていないのだから同じだろうという見方もあるが、今でさえこのザマなのに、バラマキに対して全く克己心のない政治家ばかりで予算を決めるようになったら、いったいどうなってしまうのかという心配をする人もいる。
しかし、右肩上がりの時代にうまく機能してきた大蔵役人主導の予算査定の仕組みが、今では政策の閉塞状況の元凶になっている。
なので、ここにメスを入れようという方向は、正しいことだろう。
大きな財政規律を維持する仕組みを設けた上で、各省大臣の裁量を増やし、政治責任を背景に限られた予算を戦略的、効果的に使っていこうという試みは、縦割りでがんじがらめになった自民党の部会政治では決して実現できないことだろう。
その他、閣議の形骸化を改め実質審議機関にするとか、法案の根回しを役人に任せず自分でやるとか、公務員個人と政治家との接触を制限するとか、なかなか具体的でかつツボを押さえていて、読んだ多くの役人たちも「うーん」と唸っているかもしれない。
実際、ここに書かれていることがきちんと実現できたならば、日本の政官関係は新たな時代を迎えると言っても過言ではない。
菅試案の要諦は、「実質的に動かせる者が権力を行使する」という日本の番頭文化の中で、国会議員が政治や行政を実質的に動かせるようになって、これまで番頭が事実上行使していた実権をとりあげ、「君たちは番頭なんだから、分を弁えなさい」と言ってやろう、ということだろう。
これは国のあり方の重要な転換であることは間違いなく、これだけでも政権交代をする意味がある。
ただし、この構想には大きなウィークポイントがある。
それは、これだけのことが出来る国会議員を、質と数の両面で民主党が用意できるのか、ということだ。
日本の番頭政治は、長い年月の中で作られてきた政治や行政の仕組みがそれを支えてきたという面と、人材の能力の差がそれを支えてきたという面がある。
つまり、番頭のほうがしっかりして能力もあり、日々の実務をこなすのに長けていて、安心して任せることができるので、真の権力者はその上に胡坐をかくことができたのだ。
家長は大きな背中で存在感を示していれば、日々の切盛りはかしこい女房がうまくやってくれたのだ。
今度はそれを自分でやろうというのだから、これまでの殿様が番頭と同じくらいの実務能力を身につけていなければならない。
そんな能力を持った人が、数の上でもそれなりの人数必要だろう。
しかも、しょっちゅう選挙運動のために選挙区に戻られていたのでは、行政が進められるはずがない。結局は留守を預かる役人が実権を持つ、ということになりかねない。
そんなことが果たしてできるのだろうか。
「やらせろ、やらせろ」と言うので、やらしてみたはいいが、結局出来なくて放り出してしまうといった、かつて細川政権がやってしまったようなことを、この大変な局面でやられると、国民としてはそれこそ取り返しがつかないことになる。
官僚主導の背景には、日本という国家ではこれまで、人材の流れが「いびつ」だったことだある。
これからは必ずしもそうではないようだが、少なくともこれまでは、最も優秀な人材がこぞって霞が関を目指してきた。
他の国だったら、政治を目指し、あるいはリッチな金融マンかビジネスマンを目指すような人たちが、安月給の国家公務員を目指すという「不思議な」人材の流れで官僚国家は支えられてきた。
霞が関のキャリアとして入ってくる彼らは彼らなりに、日本という国家で実現したいことを、漠然としながらも持っていて、それを実現できるのは、政治ではなく行政だということを知っていたからだ。
ビジョンを作り、法律を作り、予算を作り、その予算で事業をし、業界を指導するという政策形成のほとんどは、実のところ官僚の仕事だと思われてきた。
自分たちこそが日本を動かしているという実感もあったし、それをできるのは人一倍勉強熱心で、かつ能力もあると自負する自分たちを置いてほかにないと思ってもいた。
そして、事実そうだったし、ちょっと前までは、多くの国民もそう思ってきた。
それがある種の「選民思想」を生み出す原因でもあったのだろう。
一方、これまでの政治の仕事はといえば、共産主義から自由主義を守るという最も大事な仕事さえしていれば、後は役人の用意したものに首を縦に振り、予算や法律を通してやり、時には「秀才の独走」に国民目線でブレーキをかけ、そして選挙民のニーズを国政につないでやることだった。
実のところ、政治家の最も重要な仕事は「当選すること」だったのだ。
そして、「当選する能力」は、政策を構想する能力や国を動かす能力とは必ずしも一致せず、後者を持つ人が当選するとは限らない。
それに、選挙に落ちれば、タダの人どころから、借金まみれという「負の遺産」を背負い込むことになる。
これまで培ってきたものを投げうって、こんなリスクに賭けるということは、頭の良い秀才にはなかなかできることではない。
菅試案に書かれていることを本気で実現しようとするのであれば、これまでの日本の人材の流れを変えることが必要だろう。
しかし、立候補するという途方もない賭けに出れるのは、途方もない「変わり者」か、それがリスクにならないジャスコの御曹司のような家柄があるか、安定した親の地盤を引き継げる世襲しかない。
そんな中で、優秀な人材が政治に向うという大きな「流れ」を生み出すことが、ほんとうにできるのだろうか。
確かに、若い役人が政治に志し、民主党から立候補するという例が増えている。
しかし、それが大きな「流れ」になるくらいにならなければ、行政機構を実質的に動かせるだけの力量を政治が身につけることは難しいだろう。
その一方で、キャリア公務員のモチベーションが下がるようなことばかりしていれば、これまで霞が関に来ていた人材すら、よそへ向かうことになってしまう。
政治の人材が大してよくならずに霞が関の人材がどんどん劣化していくことになれば、それこそアブ蜂とらずになってしまって、国民としては相変わらずレベルの低い政治とこれまでになく悪化した行政サービスという二重苦に苦しむことになってしまうだろう。
人材面での裏付けもなく、「器」ではない人たちが自分で動かそうとしても、「扱い方の難しい機械」はうんともすんともいわず、結局諦めて放り出してしまうということになりかねない。
調子の悪いテレビを修理しようと、ど素人が蓋を開けてあれこれいじくってみたはいいが、前よりひどくなって映りもしなくなり、結局捨てるハメになってしまった、などというマンガのようなことになってしまうかもしれない。
民主党議員にとっては、「あー、こりゃ失敗だったな。」で済むが、その大きなツケを払う国民としては、それで済まされない。
「もう、二度とこんなことはご免だ。」ということで、せっかく見えてきた新しい政治、新しい行政が、二度と手の届かないところに遠ざかってしまうことになるかもしれない。
その意味で、政権を任された場合の民主党の責任は重い。
その政権選択選挙が目前に迫る中、まともな責任感を持っている人ならば、恐ろしくて夜も眠れないくらいだろう。
とても、ポストの皮算用をしながら浮かれるどころではないはずだ。
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