足利事件が濃くする裁判員制度の暗雲
2009年06月05日
裁判員制度スタートに向けて数年にわたって続いたお祭り騒ぎに、足利事件がたった一晩で冷や水を浴びせることになった。
膨大な税金と国民の大きな負担が必要な割には、いったい何のために必要なのかさっぱり理解されていない裁判員制度だが、問題点だけは日増しに明らかになりつつある。
過去にも、理念先行で陪審員制度が始められたことがあったが、結局のところまったく社会に根付かずに忘れ去られてしまった。
裁判員制度も、この歴史を繰り返すだけで終わる予感、いや、そうなるべきだという確信を多くの人が持ち始めている。
女性職員にストーカーまがいのメールを送り続けたり、夜行バスで隣に座ったおネエさんの太ももを触ったりする裁判官が後を絶たなくても、日本の裁判に対する国民の信頼は総じて高い。
今回の誤審(だと強く疑われる)事件にもかかわらず、国民の裁判に対する「一般的」信頼は、そう大きくは揺るがないだろう。
長年の職業訓練を積んだ裁判官が、緻密過ぎるほどに時間をかけても、この足利事件のような事件を防ぐことができないのであれば、素人が裁判員としてイヤイヤ参加させられて、いったい何が良くなるというのであろうか。
刑事事件のように、専門的な証拠の分析や、類似事案との量刑の均衡など、およそ素人には無理としか思えないようなことを、なぜ、大きな負担を強いてまでやらせようとするのか、納得している国民はほとんどいない。
裁判に対する国民の不満で最も大きなものの一つは、裁判の「結果」に対する信頼性ではなく、裁判にあまりにも金と時間がかかり過ぎることだ。
ひとたび裁判となると気が遠くなるくらいの時間と費用をかけなければならないので、悪徳大家や金貸しの横暴に対して、庶民が裁判で自分の権利を守ることがとても難しい。
なので、不正義に直面しても結局、泣き寝入りを強いらるのだ。
それどころか、大企業や金持ちを「代理」する弁護士から、「裁判にしないとダメですな。」などと言われて、裁判が脅しに使われる有様だ。
ちょっとした事件でも、最高裁まで行って決着するとなると、人生の大半の時間を割かなければならなくなる。
法律が、ふんだんに金を使える大企業と金持ちの権利を守るための道具でしかないという、法治国家としてまったく情けない状況を改善することこそが、ほとんどの国民が司法制度改革で願っていることなのに、そういう司法改革の王道からそれて、司法の民主化などという、戦後間もないことにGHQが言い出したのならともかく、今それをゴリ押しするのはなぜなのだろうか。
非民主的で、戦前体質を引きずっているのは検察であり、警察であるかもしれないが、裁判が非民主的だと批判されていたなどとは、多くの国民にとっては寝耳に水でしかない。
というより、本当に実現して欲しいと願っている「金と時間のかからない裁判」を求めたら、「そんなことより裁判を手伝え」と言われて、いやいや生活の負担まで強いられているというのが、多くの国民の実感だ。
本当に欲しいものは与えられず、頼んでもいないことを無理やりさせられている…。これが司法の民主化という意味不明な司法制度改革の実態だ。
金と時間のかからない裁判を実現するためには、司法サービスに従事する人、つまり裁判官や弁護士を増やすことが第一だ。
ということで、法科大学院を作り、弁護士の数を大幅に増やすべく着々と政策が進められてきたが、ここにきて弁護士の数を増やすことにブレーキがかかっている。
それは、よく知られているように、あの鳩山邦夫氏が法務大臣のときに弁護士の数を大幅に増やすことに「反対」したことに端を発していると言われている。
「かんぽの宿」では親方日の丸の職員を守って赤字を増やしたかと思えば、国民が本当に願っている司法制度改革の第一歩を、独自の「正義」論でひっくり返す…。
国民が、鳩山邦夫流の「正義」に払うコストは、大変高いものについている。
だいたい弁護士というサービス業に従事する者は、一定レベルの専門知識さえ備えていれば、総数自体を制限する合理性などはない。総数を制限するという思想は、既に弁護士になっている人の既得権益を保護するものでしかない。
せっかく増やそうとして始めた法科大学院の卒業生でさえ、この厳しくなった総数制限のために、司法試験に合格できない人が大半という有様だ。
鳩山ゴリ押し政治のおかげで、国民の悲願である「金と時間のかからない裁判」を実現してあげられなかったお詫びに、法務官僚が用意してくれた「お慰み」が「裁判を手伝う権利」ということなのだろう。
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