政治における印象派とリアリズム
2009年05月14日
どんな美人でも三日見ると飽きると言われるが、日本の選挙の「顔」の賞味期限も似たようなものだ。
「人の良い」日本の有権者は、清新なイメージだ、安定感がある、人柄が良さそうだということで一票を投じる「印象派」が多いので、いきおい選挙の顔となる党首選びも印象の競い合いになる。
これに対して、実利しか信じない成熟した有権者は、政党が何を約束し、その実行力がどれだけあるかをきちんと見極めて投票する。
印象主義とリアリズム。近く行われる民主党の代表選、そしてその先に控える政権選択のための総選挙は、どっちの「主義」に則って行われるのだろうか。
これは、「男」の選び方において、夢見る少女と婚期を過ぎそうな成熟女性との間くらいに大きな違いがある。選択の「厳しさ」がまったく異なるのだ。
ちょっと前のアメリカ大統領選挙では、候補者のイメージという要素がまったくないわけではないが、各候補者が掲げる公約の中身が、候補者の支持を決める大きな要因になっていたのは、日本でもよく報道されていたとおりだ。
それは、日本と比べて社会階層がはっきりと色分けされ、政権を担う政党、政党を代表するリーダーの違いが、自分の生活にダイレクトに響いてくることを、身を持って知っているからだ。
そのような社会のありよう自体が良いことかどうかは別として、一億総中流がもはや歴史的事実になりつつある今、日本の有権者もこれまでのような印象主義を脱してリアリズムへと向かっていくことだろう。
そういう背景もあって、日本でも選挙に当たってマニフェストを出すことが「標準」になりつつあるが、「ハッピーで素敵な社会にします」みたいな空疎な抽象論ばかり並んだ「公約」との違いがわからないものも多い。
そのうえ、作っている本人でさえ、まともに読んでいないようだから、いかに形骸化しているかがわかるというものだ。
今日(5月14日)の朝日新聞に、民主党の枝野幸雄元政調会長が、公共事業受注企業からの政治献金禁止という項目が、民主党マニフェストから「いつの間にか」落ちていることに最近人から指摘されるまで知らなかったと報じている。
政権選択と言われる今度の総選挙ですら、対立軸どころか、まともな政策すら提示されずに「選択」を迫られる国民は、いったい何を選択したらいいのだろうか。
政権選択とは、政党の美人コンテストではない。
それは、政党が掲げるグランドデザインとそれを実現するための政策パッケージ、そしてそれを実行するガバナンスの競い合いでなければならないはずだ。
もちろんそのためには有権者が、「印象派」から「リアリスト」に変化しなければならないが、その兆しは十分にある。
財政的裏付けの乏しい大盤振る舞いが並ぶ民主党の公約を見て、多くの国民は眉に唾をつけているし、また、環境重視を謳いながら高速道路は無料化するというのにも自己撞着を感じている。
自民党体質の打破を掲げながら、田中・金丸政治の本流をくむ党代表が不明朗な政治資金について、「辞めれりゃいいんだろ、辞めりゃ。」と開き直って、いまだに十分な説明すらしていないことに強い不信感を持っている。
今回の政治資金規正法違反だけではなく、政治資金を使った不動産財テクの話についても煙がもうもうと立っているが、本人は「火(非)はない」と言うだけだ。
これから選挙に向けて、民主党が国民に何を約束するのかわからないが、このような基本的な部分について「何がなんだかわからない」政党のままでは、何を約束されても、「ほんとかー。」という気持ちを拭い去ることは難しいだろう。
「だったらまあ、こんなときだし、カッコがよくて口だけで愛を語る男より、凡庸でも安定した男にしとくか。」と、婚期を過ぎたインテリ女性のような選択に走るかもしれない。
麻生総理もその線を狙っているようだし、今のところ戦術は見事に功を奏している。
「チャラチャラ若くてカッコいいだけの男を選んでも、後で苦労をするだけだぞ。面白みがなくても安定して生活力のある奴を選んだほうが、結局は幸せになるんだからな。」と言う年老いた父親のいう事を聞いてもいいかな、と思い始めている、そんなところだろう。
政権が変わること自体に意義があるという人もいる。
政治に緊張感を持たせるという意味では、そういう面もあるだろう。
しかし、実現すべきプログラムも持たずに政権を持ったはいいが、終戦直後の社会党政権のようにゴタゴタ、ガタガタしただけで混乱以外何も残さずに自壊したのでは、二大政党制などは未来永劫夢のままになるだろう。
その意味で、いまだ美人コンテストのレベルを出ない民主党の代表選のあり方に危惧を抱く人は多い。
今度の代表選は、「誰を選ぶか」ということだけではなく、「どう選ぶか」ということを多くの国民が注視していることを忘れてはならない。
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