独立を隠れ蓑に、説明責任を果たそうとしない検察
2009年03月13日
小沢代表秘書逮捕に関し、検察がこそこそと捜査情報をリークしているとしか思えないような新聞記事ばかり目につく中、日本政治に関する著作の多いジェラルド・カーティス・コロンビア大教授が、3月12日付け朝日新聞で、国民に対して説明責任を果たそうとしない検察の姿勢を大いに批判している。
一部の野党議員の「検事総長に国会で説明させろと」いう主張を与野党の国会関係者が「一致して」否定するように、日本人の頭の中で、「検察」と「説明責任」は、なかなか結びつかないようだ。
これに対して、検事ですら公選され、その行使する権力についても、当然のように説明責任が求められるアメリカ人から見れば、政権交代を目前にした野党第一党党首の第一秘書を、比較的軽微な事案で逮捕した今回のようなケースについて、検察の責任者がまったく説明責任を果たそうとしないばかりか、小沢代表に対するネガティヴ・キャンペーンのようにこそこそと情報をリークしている日本の検察が、どうしようもなく非民主的で、不透明な存在に見えてしまうのだろう。
多くの日本人にとって検察官は、政治から独立して孤高を保ち、法のプロフェッショナルとして粛々と公平、公正に社会正義を実現するというイメージを持っているのかもしれない。
自助能力を失った政治家たちに対して、民衆の声を代弁して鉄鎚を振り降ろすことのできる社会正義の守り神といったイメージだろうか。
なので、そういうものに対して説明責任を求めることで「圧力」を加えることがあってはならないということなのだろう。
しかし、残念ながら、現実の検察はそうとばかりは言えない。
例えば、戦後の検察制度に対する政治介入の最たるものとして人々の記憶に残る造船疑獄事件に関する犬養法務大臣の指揮権発動についても、指揮権を発動した当の本人が死の直前に文芸春秋に寄稿した手記で、検察上層部の人事に絡んだ組織内部の「策動」があったことを明らかにしている。
また、最近では、検察上層部が高級料亭で飲み食いやゴルフ三昧に使うための裏金作りを検察が組織的に行っていることを「告発」しようとした大阪高等検察庁の公安部長が、その当の検察に逮捕されるという異常事態もあったし、北海道警などの警察の裏金捜査についても、当事者が「白状」しているにもかかわらず、また検察審査会が不当といっているにもかかわらず一貫して不起訴としたこともあった。
また、こういう赤裸々な権力濫用の疑いではなくても、権力行使の「方針」が正しいものなのか、疑わせるものも多い。
ライブドア事件の前に就任した検事総長は、「国民が汗して働くことが馬鹿々々しくなるような風潮を正すように捜査を指揮していきたい」といった趣旨のことを言っていた。
そのような考えに基づいて、ライブドア事件で堀江被告を厳しく断罪したこと自体はもっともなことだっただろう。
その一方で、組織ぐるみで粉飾をしていたことを自ら認め、しかもその規模ももっと大きな日興コーディアル・グループのときは、お咎めなしだった。
「検察の劇場化」と言われるこのような傾向、つまり、小泉劇場政治のように大衆のセンチメントに訴えようとするこのような検察権力の行使の在り方は、公訴権の公正、公平な運用と言えるのかどうか、多くの国民の間に疑問を残す結果となった。
これらの事件についても、検察は、およそ説明責任を果たそうとはしなかったし、それについてマスコミが特に非難したという記憶もあまりない。
われわれのような一般国民には、公訴権を独占し、一たび起訴されればほぼ間違いなく有罪になるという司法制度の中で、恐るべき権力を行使しながらも、その権力の源泉たる国民に対してはなんら説明責任を果たそうとはしない、アンタッチャブルな組織で、「触らぬ神に祟りなし」という態度を国民に強いているように思えてしまう。
今回のような異常事態について、国会できちんとその権力行使の方針について質そうとすらしない政治家の態度も、このような漠然とした恐れや、選挙違反捜査などで意趣返しをされることへの恐れのを反映しているのではないか、という疑問を多くの人が持っている。
検察権力の行使が、政治的影響力から隔離されていなければならないことはもちろんのことだろう。
しかし、政治からの独立は、政治的な説明責任を免除されていることではない。むしろ、独立であるからこそ、検察の責任者は、国民に対して直接に説明責任を負っているはずだ。
戦後の検察が、真の意味で民主検察となっているかどうかは、まさにこの説明責任を検察がどのように考えているかで測られるべきものだ。
この点に関して、KSD事件で村上正邦・元労相を捜査し、後に東京地検特捜部長に就任した検事が、一部マスコミに配った「某受験生及び修習生向け雑誌の原稿抜粋―東京地検特捜部長に就任して」という文書が国会で問題になったことがある。
村上氏は、後に、この検事が取調べのときに同氏に対して、
「貴様はチンピラやくざよりまだ悪い。お前の裏の部分を世間に明らかにする。新聞記者を集めて公開してやる。覚えておけ、三途の川に送ってやる。舌を2、3枚抜いてやる。」といった罵詈雑言を終始浴びせたと非難しているが、その検事は、マスコミについて、次のように「正直に」述べている。
(http://web.chokugen.jp/uozumi/2006/09/post_b02a.html)
------------------------------【抜粋】--------------------------
「正直なところ、マスコミの取材と報道は捜査にとって有害無益です。…マスコミが犯罪者そのものになり下がっていることの現れであると言って少しも過言ではありません。
私は、常々、記者らに、そのような取材や報道に何の社会的意味があるのか、君らは犯罪支援をしていて恥じないのかと言っているのですが、まともな反論を聞いたことがありません。
…この世の中で、マスコミほどいい加減で無責任な組織はないというのが、私が特捜検事を長くしてきた経験に基づく実感です。…
そのような意味で、マスコミはやくざ者より始末に負えない悪辣な存在です。…
そのようなマスコミは本当に有害無益な存在です。…
そのために、いかにマスコミに気づかれずに隠密裏に捜査を進めていくかについて神経をすり減らす毎日です。
------------------------------【抜粋】--------------------------
(この文書は、Googleで検索すると現物があちこちに掲示されている。)
「マスコミほどいい加減で無責任な組織はない」といった箇所は、まったくそのとおりで、思わず「いいことを言うな~」と読む者を納得させられるが(笑)、残念ながら文書を通して表現される思想は、およそ民主検察のイメージの「かけら」もない。
この検事の頭の中では、戦後どころか戦前すら終わっていないのだ。
田母神前航空幕僚長の論文には毛を逆立てても、地検特捜部長のこの発言に対しては「有効な反論」すらできないほど、マスコミは情けないのだろうか。
これはもちろんこの検事の「個人的見解」なのだろう。
しかし、このような検事を特捜部長という要職につける検察の体質は、この文書に表現されている思想と大した違いはないということなのだろう。
検察権は、司法制度の根幹をなす国家権力の中の国家権力だ。
それを行使する者、しかも検察の中枢を担う者がこのような思想でそのような権力を行使する国家は、果たして民主国家と言えるのだろうか。
検察官も人間だ。
出世欲もあれば、金銭欲もある。人のカネでいい料亭で食べたいし、ゴルフだってしたいだろう。
検事を辞めてヤメ検・弁護士になる前に、名前を売ろうという気持ちも湧くことだろう。
あるいは、個人としての価値観が捜査方針に色濃く反映することもあるだろう。
そういった中で、検察権の行使について、その権力の源である国民に対してきちんと説明できるかどうかが、民主検察の根幹だ。
政治的独立と政治的無責任をはき違えるようなことがあるとすると、検察は民主的基礎のない独裁権力でしかない。
それは日本国憲法の精神に真っ向から反する非民主的組織だ。
検察としては、「黙って見ていてくれ。そのうち、結果がすべてを語る。」という趣旨なのかもしれない。
その意味で、逮捕された秘書の拘留期限切れが目前に迫っているので、その推移を見守ろう。
ひょっとすると小沢代表や二階大臣などの有力者でも逮捕して、国民を唸らせるのかもしれない。
しかし、これまでやってきたような、マスコミリークで「怪しさ」を煽るやり方は、かんぽの宿で鳩山大臣がとった行動のように、タブロイド受けを狙った、愚民思想に基づくポピュリズムと言われても仕方がない。
ポピュリズムを目指す検察ほど、社会正義の番人として危ういものはない。
なにも国会で、捜査について逐一報告しろと言っているのではない。
検察権力の行使について、ひろく国民が抱いている疑念に対して、正々堂々と説明すべきだと、多くの国民が思っているのだ。
そのような説明責任すら果たそうとせず、一部マスコミにリークすることでネガティブ・キャンペーンを行っている検察は、戦前の特高のように、ダーティで胡散臭い印象を与えつつあり、これは、今の検察の先輩たちが培ってきた社会正義の守護神のイメージからはおよそ程遠いものだ。
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