国際標準の役員報酬が生んだ金融恐慌の影の濃さ
2009年02月16日
アメリカでも公的資金による金融機関のてこ入れが行われようとする中、法外に高い経営者の給与が問題となっており、オバマ大統領はそれに制限を加えようとしている。
日本の宝くじの一等賞金がみすぼらしく見えるほどの桁外れの給与は、これまではアメリカンドリームの象徴だったが、今では世界に害悪をもたらすアメリカ型資本主義の元凶とされ、アメリカン・ナイトメア(アメリカの悪夢)と批判されている。
「ここはアメリカだ。我々は富そのものを非難したりはしない。我々は成功をおさめたということでその人を不満に思うことはない。人々が頭にくるのは、経営者達が失敗に対して報酬を与えられることであって、人々がそう感じることはもっともだ。」
こう言って、オバマ大統領は、公的資金によって救済される銀行の経営者の給与を50万ドル(約4500万円)に「制限」する措置を発表した。
経営責任を問われてクビになる人たちが多額のお金をもらうことを「金のパラシュート(golden parachute)」と呼ぶが、今回のサブプライム恐慌でも、政府による救済策が導入される前にあわてて前倒しで多額のボーナスの支給を決めたりした企業があり、アメリカの世論はこれらがgolden parachuteだと言って批判を強めている。
特に、議会公聴会で、破綻したリーマンのCEOに対して2000年以降約4億8000万ドル(今の為替レートで430億円余り)が支払われたとして、批判が高まった。
今回のオバマ大統領の措置はこういう批判に応じることで、企業救済のために税金を投じることに対する世論のアレルギーをやわらげる狙いがあるのだろう。
日本人としては、そもそも4500万円が「制限」なのかとつっこみを入れたくなるところだが、アメリカの超大企業のCEOの平均的な年収が14億円なのに、「こんな給料じゃ、働く気がしない」と、ウォール街からはさっそく経営者たちが声を上げている。
いわく、「こんな制限を課すと、才能のある経営者がこのような制限を嫌ってよそへ移り、経営危機に瀕している銀行が生き延びるために必要な人材を奪うものだ」という理由だ。
そもそも他所へ移らなければいけない人たちは今の経営危機を招いた人たちなのだから、とても「才能のある経営者」とは言えないと思うが、高い給料こそが才能を集める唯一の手段だといった「大リーグ論法」は従来から根強い。
世界市場で熾烈な競争にさらされている企業は、給料も国際標準にすることで世界から優れた才能を集めなければ、これからの時代で生き延びることはできないという主張は、日本でも、「勝ち組」を代表する人たちを中心に根強い。
アメリカの大リーグ・チームが、何十億円という年俸でスタープレーヤーを世界中から集めているのと同じことを、日本企業もしなければ、「俺たちのように優秀な連中はよそへいっちまうぞ」という、ある種の脅しを、これからのグローバル競争時代での「生き残り戦略」として説いているのだろう。
まあ、彼らがどれだけ「優秀」であるかは、今回のサブプライム不況で、世界中の人たちが「痛いほど」わかったわけだが、そういう主張の際によく引き合いに出される数字として、役員報酬と大卒初任給との年収格差が、日本は数倍でしかないのに、アメリカは何十倍、ケースよっては何百倍にもなるというのがある。
こういう給与の均質構造が経営者のサラリーマン化を助長する結果、リスクをとろうとせず、他社の様子ばかり気にして横並びばかり気にするダメ経営者の温床となるという主張だ。
その一方で、この日本でも高額の役員報酬が批判されている。
日刊ゲンダイが「許されるのか!高額役員報酬30社リスト」と題して、「派遣切り」した企業の経営者の役員報酬をリストした記事があった。(http://news.biglobe.ne.jp/politics/gen_090120_1237948655.html)
これは、派遣切りした企業経営者を「やり玉に上げる」ためのものだろうが、それによれば、確かに日産自動車の平均役員報酬は3億5583万円、ソニーは2億8986万円、コマツが1億3571万円と5社が1億円を上回っているが、それ以外は何千万円のオーダーになっていて、ほとんどがオバマ大統領の設定した「制限」以下になっている。
日刊ゲンダイが庶民の怒りを煽ろうとする意図とは裏腹に、日本の役員報酬がアメリカに比べていかに「常識的」かということを示していて興味深い。
最近では、日航の社長が、自分の給料をパイロット以下の950万円に引き下げ、バスで通勤し、ランチは社員食堂で食べるということがCNNで取り上げられ、アメリカ国民から「この国の強欲な経営者は彼の爪の垢でも煎じて飲むべきだ」と絶賛されたりしている。
たしかに日本のサラリーマン経営者の「ことなかれ主義」を歯がゆく思う人も多いが、その一方で、日米の役員報酬の差に見合うほどアメリカの経営者が優れ、日本のサラリーマン経営者がダメ経営者ばかりかといえば、必ずしもそうとは言えないだろう。
特に、今回の恐慌の傷が一段と深いのは、アメリカの経営者の役員報酬が成功報酬にウェートが置かれているために、短期的な業績を狙い無理な経営拡大を競い合う心理が働いたことも要因だと言われている。
土地バブルのときの日本で、銀行同士が貸出しの伸びを競い合ったのと同じ状況があったということなのだろう。
だとすれば、日本の役員報酬の「国際標準化」を主張する人たちが言うほど、役員報酬と経営の才覚の間には相関はないのかもしれない。
上に掲げた日刊ゲンダイの記事の中で、億円プレーヤーとして掲げられている企業、例えばソニーや日産といった企業はその典型で、それぞれ外国人がCEOとなっている。
しかし、そういう国際標準の役員報酬を用意したところで、結果は良いものもあれば悪いものもあるで、従来型の役員報酬の企業と、大きく異なるものには思えない。
日産のゴーン会長が業績をV字回復させる一方で、ソニーやマツダの外国人経営者は企業の凋落を止めることはできず、その存在感はおよそ役員報酬に見合うものではない。
日産のゴーン会長の業績回復も、それが長期的に耐えられるものだったのか、短期的な数字狙いのものだったのかも、これから試されることになるのだろう。
役員報酬がどうあるべきかの議論は、企業という存在が、社会でどのようなものであるべきなのかという議論と裏腹だ.
企業とは、しょせん株主の所有物なのだという立場からは、どんなに目玉が飛び出るような報酬を決めようとも、それは所有者である株主の自由であって、外野の連中からとやかく言われる筋合いではない、ということになろう。
俺たちが儲けることによって、君たちが貧乏になったわけじゃないんだから、あれこれ文句を言うのはただの「ひがみ」でしょ、というわけだ。
それに対して、企業は社会のシステムの一部だと見なす立場からは、そのシステムの中で所得が適正に配分されることは社会的正義だと考える。
会社が利益を上げるのは、なにも一部の経営者だけの手柄ではなく、会社で働くすべての人の成果なのだから、一握りの経営者が一般の職員の何百倍もの給料をかっさらっていくというのは、正義に反するというわけだ。
そのような立場からは、経営者と正社員の間だけではなく、正社員と非正規労働者の間でも、「同一労働、同一賃金」と言って、所得配分の公正さを求めることになろう。
前者がアメリカ型資本主義の原型だとすれば、後者はフランスなどが主張するヨーロッパ型モデルなのかもしれないし、日本型家族経営と言われるものにも通じるものかもしれない。
ではどちらが正しいのかということになると、アメリカ型資本主義の行き詰まり」などと言われる中で、ちょっと前までは前者の見解を主張していたのに、最近になってやっぱり後者だと言ってる学者もいるように、明確な答えはないようだ。
そもそも、どっちが正しいといった問題でもないのかもしれない。
資本主義社会なのだから、企業が投資家(株主)のものであり、法に反しない限りどういう経営方針をとるかについて経営の自由はあるだろう。
しかし、どんな会社であっても、有形・無形に社会の恩恵を受けているものだし、その社会で広く受け入れられている価値観とあまりにも相容れない企業に対しては、消費者としての市民から反感を受けることになり、経営自体がうまくいかなくなるだろう。
企業の社会的責任が問われるのも、このような、企業の「社会的存在」としての性格を考えれば、当然のことだ。
それは、私たちが個人として自由を享受しつつも、「社会的存在」として、さまざまな「しがらみ」を意識しながら行動することと同じだろう。
それができない者は、個人だろうと企業だろうと、社会の中で良好な関係を築くことは難しいに違いない。
国の競争力を高めるという産業政策の立場からは、どっちのモデルが企業として競争力を持つかという問題だろう。
だとすれば、それは企業の業種やビジネスのタイプ、そして社会の人たちの考え方の違いということも関係するだろう。
要は、どっちのモデルで企業経営をすれば、企業として、社会として持てる力を一番発揮することができて、競争力を発揮できるのか、ということだろう。
日本の製造業が「全員野球」で世界で類をみないほどの総合力を発揮できた例もあるし、深刻な経営危機にあったアップルを強いリーダーシップで再建してみせたスティーブ・ジョブズの例もある。
社長と自分の給料が大して違わないことでモラルが上がる社会もあれば、「おれもいつかはああいう巨万の富を手にできるかもしれない」というアメリカン・ドリームがあることでモティベーションが高まる社会もあるだろう。
冒頭に引用したオバマ大統領の演説でも、彼がことさらに「私たちは富、それ自体を非難するわけではない。」と断っているのは、彼自身が体現しているように、アメリカン・ドリームこそがアメリカの活力の源泉だということを示すものだろう。
過去においては、アメリカ型資本主義と、日本型家族経営への礼賛が、交互に繰り返されてきた歴史がある。
日本が類まれな「平等主義」と「現場力」で、市場から欧米の製品を駆逐し、メイド・イン・ジャパンで染め上げていった時期には、日本型モデルこそが勝利の方程式と思われていた。
ちょうどその頃、ハードロックバンドのディープ・パープルが日本でライブ公演を行ったが、そのときの録音がロック史に残る名盤として残された。そのレコードの日本向けタイトルは、「ライブ・イン・ジャパン」だったが、世界では「メイド・イン・ジャパン」というタイトルで売り出されたのも、「メイド・イン・ジャパンは品質がよく、売れるぞ」という洒落が含まれていたに違いない。
ところが、IT時代を迎え、斬新なビジネスモデルを発想することで巨万の富を創造する時代になると、カリスマ経営者の強烈な指導力と発想力こそが、企業の富の源泉と思われるようになった。
すると、日本の現場力とか、下請け企業が地道に培ってきた要素技術などが軽視され、日本も国際標準の役員報酬で優れた経営者を世界から呼び寄せ、経営革新をはかるべきだという議論が主流になった。
この傾向は「金融の時代」にも引き継がれたたが、金融バブルが見事に崩壊して、金融のカリスマがただの手品師かペテン師だったと思われるようになり、また、日本型経営に回帰すべきだという議論が力を増している。
こうやって見てくると、役員報酬のあり方について、すべてのケースに当てはまる「共通解」などは存在しないように思える。
日刊ゲンダイの記事にあるように、派遣切りや正社員切りが吹き荒れる中で、大した業績も上げていない外国人CEOが何億円ももらっているのは「社会的正義」に反しているように感じられるが、病めるアップルを蘇らせたスティーブ・ジョブズがそれに見合う報酬を得ても、誰も文句を言わないだろう。
もっとも、スティーブ・ジョブズの場合は、1997年以降、年間給与は1ドル(90円)で通しているが、2003年にアップル株を1000万株(700億円以上)もらったので、十分すぎるほどもらってはいるが。
結局のところ、冒頭のオバマ大統領の演説にもあったとおり、成功に対して適正な報酬が与えられることについて異論はないのであって、立派な事業内容を持つ会社を起業し、成功してIPOで巨万の富を手にすることについては、今の日本でも、多少のひがみは出てくるにせよ、当然のことだと思われつつあるのではないだろうか。
しかし、その「成功」が社会に何の貢献もしない虚業であれば、それで得られた巨万の富は「濡れ手に粟」だと感じられるだろう。
ましてや、「切ったり、はがしたり」するだけで、多くの人に痛みを強いることだけ短期的に数字を「改善」し、業績改善を理由に高額の役員報酬を貰うとすれば、それは著しく社会的正義に反すると感じるし、多くの国民もそういう企業から物を買うことに心理的抵抗を感じるにちがいない。
今回の金融恐慌でアメリカの銀行や自動車メーカーのCEOの高額報酬に批判が高まったのも、いつかは破綻するような危ういビジネスモデルで短期的な数字だけを上げ、その結果、破滅的な負担を国民に強いておきながら、庶民が親子数代で稼いでも足りないくらいの報酬をわずか数年で得ることが、「不相応」だと感じるからで、このような感覚こそが「国際標準」ではないだろうか。
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