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欧米の人と議論して日本の立場を説明するのが難しい話題として、捕鯨の次にくるのが、この死刑だ。
ローマ教会が聖書の原典を改竄して、輪廻転生という概念をキリスト教から消し去ってしまったため、「罪」に対する究極の罰は、一回だけ「神」によって下されるべきであり、人間社会で死刑にして神の仕事を奪っちゃいかん、ということなのかどうか知らないが、人に「死」を下すというおこがましいことを人間はしてはいけない、みたいな妙な謙虚さがある。
それに比べて、アジアの死刑は、「リセット」のような感覚があって、「次はちゃんとした奴に生まれてくるんだぞ。」みたいな潔さがある。
まして、袴田事件のように、「裁判のときは無罪の心証だったんだよね〜。でも、つい・・・。」などとカジュアルに言われると、「死刑判決くらうなんて、ただの逆宝くじに当たるみたいなもんなんだねえ。」という気楽ささえ感じる。
もちろん、実際はそんなことはないのであって、どんなに明白な事実関係で本人も認めている事件であっても、死刑判決を下さなければならない判事は、死刑にしなくてもいい理由を必死で探しまくるという。人に死を下すというのは、ことほど左様にキツイ仕事なのだろう。
死刑廃止論を唱える人は、すぐにサッコ・バンゼッティ事件みたいなものを持ち出してくるし、それに反論する人は、オウムの松本死刑囚や、幼女誘拐殺人魔の宮崎死刑囚、池田小の事件とかを挙げ、いちいち裁判などというまどろっこしいことをしなければならないことがアホ臭く感じるような事件を持ち出してくる。
女子高校生コンクリ詰め殺人事件という悪魔でも躊躇するようなことをした奴らが、今、平気な顔をして市民生活を営んで、ひょっとしたら mixiに入っていたりするかもしれないと思うと、もう少し思いきって死刑を活用してくださいよ、裁判官さん、と思っている人も多いんじゃないだろうか。
このように、「人を殺す」という一言でくくれないほど、事件の悪質度、有罪判決の確実性がまちまちだし、死刑以外の刑は、結局のところみんなシャバに出てこれるという、刑罰の落差が大き過ぎるという事情があるために、一点の曇もなく悪魔な事件か、GHQのプレッシャーがある時代で、さっさと話を切り上げたい事情でもなければ、しばらく「在庫」として置いておく、みたいな運用がこれまでなされてきたし、それは、論理的ではないが、ある意味で日本的な、やむを得ない面があるのかもしれない。
ただ、いつぞやの法務大臣みたいに、私の信条として死刑執行令書にサインしないとカッコつけてる奴がいたが、だったら法務大臣ポストを蹴って、死刑廃止の議員立法でもすればいいわけで、いいカッコするポストがほしいという卑しさを有権者に印象づけたみっともない話しだった。
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