ファッションとしてのブッシュ嫌い
2007年03月10日
群集心理というのは、それに参加している人からいつのまにか、自分がなぜそれをしているのかという目的意識が失われ、行為自体に意味があるように錯覚し始めることによって生まれる。
本を訳しただけで勝手に死刑「判決」をくだし、はるか極東の筑波という街にまで来て罪もない研究者を殺したり、一片の罪もない人の首をゴシゴシ切って、この世の物とも思えない悲鳴までしっかり記録されている動画を世界にバラまいたりしている人達に向けて、「宗教を語った暴力は許さないぞ。」というプラカードを持って反対デモをした、なんて話はついぞ聞いたことはない。
罪もない何百人もの人が乗った飛行機をビルに突っ込ませて、罪もない何千人もの人たちの命を一瞬にして奪った連中に対して「憎しみ」のデモをせずに、「ブッシュ、ゴー・ホーム」という、要するに何が言いたいのかわからないプラカードしか掲げることができないデモにこれだけの人が集結するのはなぜなのか。単にブラジル人が仕事嫌いで、集まって馬鹿騒ぎばかりしている国民だということ以上の理由があるだろう。
一昨年のロンドンでの同時多発テロのとき私はたまたまロンドンにいたが、号外で見たテロ現場の惨状は、活字で書いてもおそらく読者に吐き気を催させてしまうと思う。スペインでの列車テロは、それ以上の悲惨さだったことも容易に想像がつく。なのに、これらの事件は、「ブッシュ、ゴー・ホーム」ほどの憎しみも大衆の中に呼び起こさないのだろうか。
ロンドン・テロの日の夕方、日頃からの訓練のたまものでバスが再び動き出したが、テロ現場に向かうバスの中で、手に花を持ち、窓ガラスに頭を押しつけて嗚咽し続ける若者を見た。そういう光景を見た私としては、「怒り」を向ける順序と方向が違っているんじゃないのか、という気がしてならない。
ヨーロッパからのある意味でテロリスト集団だった十字軍に苦しめられたイスラム諸国の一部の人達が、まるで全世界に十字軍を送るようにアルカイーダのフランチャイズ組織を作り、隙さえあればとテロの機会を窺っている。そして、イスラム教がそのための精神的支柱の役割を果たしている。
それが宗教としてのイスラム教の本来の意図と反するのなら、ブッシュなんかかまって遊ぶ前に、「神聖なイスラム教を語って悪事を働くのを止めろ。」とか、「全イスラム教徒は、アルカイーダの暴力行為を絶対許さないぞ。」といった、「ブッシュ、ゴー・ホーム」よりも意味のあるメッセージを掲げてデモをすべきなんじゃないのか。
「ブッシュ、ゴー・ホーム」は、その後でいいし、その前に任期が終わって本当にゴー・ホームするから、その必要もなくなる。叫ぶ必要のないメッセージを叫び、しなくてもいいデモをしながら、暴力を許さないぞという、人々が安心して暮らすために一番大事なメッセージには知らん顔をしているというのは、人間というものが、数集まるとバカになるという不思議な習性を持つ動物であることを顕著に示している。
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