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自分の怒りを誰にぶつけていいかわからないときでも、「怒り」だけはなんとかしなければならないので、人間には「八つ当たり」という便利な手法がある。
格差議論の難しいところは、最後は結局この「八つ当たり」のような議論になってしまい、それがポピュリズムと結びつくことだ。
クラスで勉強が出来る子が、ますます勉強ができるようになると格差は広がる。もちろん、それ自体、問題であるはずがない。ただ、出来ない子が、無能な教師のためにますます勉強ができなくなる。これは、問題だ。
振り返ってみると、日本の一部の有能なプロフェッショナルは、労働市場の国際化の恩恵によって、目が飛び出るような給料を貰う人も出てきている。
その一方で、荒川区などのように生活保護世帯の割合が突出するような貧困地帯や、一部の派遣労働の実態に見られるように、社会の下方発散とも言えるような状況が出つつある。
でも、後者のような問題は、有能な人がバリバリ稼ぐから起きた問題ではなく、時間を売って金をもらう的な、代わりがいくらでもきくいわゆる代替労働市場が国際化したことで、賃金の国際的平準化が起きているということだ。
要するに、高い給料も、安い給料も国際化しているということだ。中国人を受け入れなくても、仕事を国外に出せば効果は同じ。世界的に同じようなことが起きていて、誰でもできる仕事の単価はどんどん下がっている。それを労働基準法やなにかで規制しても、「んじゃ。」と、仕事を外にもっていけばすむことだ。逆に、そうしないと、企業自体がつぶれて、下も子もなくなる。
自助自立の精神というのは、国民に説くのは難しく、口当たりの悪い議論なので、野党はなかなかしない。まして、なんとしても次は政権をとろうと、ポピュリスト化していればなおさらだ。
ただ、生徒が勉強できないのは、生徒だけの責任でもない場合が多い。やる気のないダメ教師が生徒の芽を摘むことだってある。これまでの教育政策がまさにそれだった。
世界が、今のこの状況を見越して競争力強化にしのぎを削っていたときに、ぼよよーんと「ゆとり教育」とかのたまわっていた人たちに教育行政を預けてしまった、国民としての愚かさのつけが今、回ってきているのかもしれない。
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