キリストの家族墓をめぐる論争
2007年03月04日
ちょっと便乗で申し訳ないが思い出したので。
母と兄弟、そして妻がつつましく葬られていた大昔の墓が発見された。これが普通の家族であれば、当時の生活を知る考古学的価値のあるものか、そうでなくてもなんとなくホンワカした家族の絆を感じさせるニュースだが、葬られていたのがイエス・キリストで、その妻がマグダラのマリアだとなると、もうそれだけで物議をかもす。
ターミネーター2やタイタニックでおなじみのキャメロンが手がけた「ドキュメンタリー」がこの世紀の大発見を扱っている。
案の定、キリスト教サイドからは、ターミネーター2は面白かったけど、3は駄作で、今度のはそれ以下だ(と言っているわけではないが)、みたいな批判やら、昨今のダビンチブームへの便乗商法だ、みたいにコキ降ろしているが、どうでもいいんなら、そんなに熱くならんでもいいじゃんかよ、と微笑ましい。
キリスト境に対する無知を晒け出すようで申し訳ないが、私のように異教徒の野蛮人から見ると、このニュースにもあるように、神と人間の間に入って、あれこれちょっかいを出す教会が、なんで必要なのか、よくわからない。
この人はいい人、この人は悪魔、というレッテルを貼ったり、もともとの聖書を改竄しまくったりする人たち、しかもその皆さんたちは、狭いバチカンの中で、永田町の面々も顔色をなくすほどの政治的駆け引きで決まった政治家さんなわけで、信仰という、きわめてパーソナルな行為に、どうしてこんなにバリバリの政治機構がいるんでしょうか。
それにこの人たちが、カジュアルに何百年もやり続けた宗教裁判のために、ナチスドイツがガス室に送り込んだ人の数にも匹敵するくらいの人が燃やされちゃったわけだし。
そもそも、教会がなきゃ信仰ができないんでしょうか。
この人とこの人は偉いんですよ〜、でも、この人の言うことには耳を貸すのをやめましょうね〜、だって、地獄いやでしょ、あなた? みたいなことをいちいち言わなきゃいけないんでしょうか。
それは、受け手である信者が判断すればいいんじゃないのかなあ。
もっとも、仏教だって、あっちこっちに一杯立派なお寺があって、そこのトップになるには、パチカンほどではないにせよ、政治的駆け引きがあるわけだろうから、キリスト教だけの問題じゃないんでしょうが。
いや、そもそも信仰が「心」の問題と、私だけが大きな勘違いをしていたのかもしれない。「信仰」とは社会的、政治的、経済的行為の一態様に過ぎないと考えれば、すべて得心がいく(笑)。
| ■江戸時代初期の殉教者188人、法王庁が「福者」に(読売新聞 - 2007年03月03日) |
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