事業仕分けが見せつけた国家の迷走
2009年11月18日
政府の審議会といえば、そこら辺の睡眠薬よりもはるかに催眠効果の強いものばかりだが、この行政刷新会議の事業仕分けほど、見ていて面白い会議はなかった。
下らない上につまらないという二重苦のような民放番組の代わりに、ゴールデンタイムで放送すべきかもしれない。
さて、その稀に見る「面白さ」に見合うだけの成果を、この事業仕分けは上げることができたのだろうか。
行政刷新会議の事業仕分けが前半の5日の日程を終え、1兆円の「成果」を挙げたと報じられた。
しかし、中身を見れば、廃止となったのはわずか1千億円足らず。
それも、鳩山政権が重視しているはずの「人への投資」のための事業がずらりと並ぶ。
成果となる額の大半は基金の国への返納で、合計7,300億円弱。
事業を実施している団体から基金を国に返納させるのは結構だが、その基金が目的としている事業を国が継続するのなら、結局のところ国からの支出は増える。
基金が目的としている事業自体の廃止を決めずに、基金を返金させるだけで、その返金額を「成果」として掲げるのは粉飾というべきだろう。
また、下水道事業のように事業を地方に移管するという「仕分け」もあった。
事業の実施を国から地方に押し付けただけのことで、事業を実施するための税金が必要なことには変わりがない。
ナショナル・ミニマムを確保するための事業を誰が責任をもって実施すべきは、国や地方自治体などの関係者を交えてしっかり議論すべきことだろう。
それを1時間足らずの間、しかも一方的に糾弾をまくし立てるだけで決めることが、責任政治なのだろうか。
仕分けの手法の支離滅裂さも、見ていて痛々しいほどだった。
人民裁判どころか、中世の魔女裁判のように、主計局のチクリで仕分け対象に選ばれ、法廷に引き出された時点で「黒」はほぼ確定。
後は、「仕分け人」ならぬ「吊るし上げ人」の気分による「多数決」で評決が下される。
どういう基準で仕分けされるのかの明確な基準すらない。
挙句の果ては、政治主導なのかどうか知らないが、多数決の原則すらテキトーに解釈されていた。
16日付け朝日新聞が報じているように、巡回して子供に劇を見せるという、昔ならアイスクリーム売りがやっていたような厚労省の事業は、菊田議員が「子供たちに夢と希望を与える事業は大切にすべきだ」という理由で、12人中わずか2人だけが「要求どおり」と判定したにもかかわらず、その「要求どおり」で通してしまった。
その一方で、若者の自立を支援するための事業はバッサリ廃止している。
若者を仕事に就かせることよりも、子供に巡回劇を見せる方が、国家としてより重要な事業だというのが民主党の思想なのだろう。
さらには、政治主導といいつつつ、衆議院本会議の開催という理由で、政治家が一人もいないままに、民間有識者だけで「勝手に」仕分けしてしまっている。
仕分けの「手腕」を期待されて指名された民間有識者なので、マスコミが注視する中、いきおい、どれだけ「鋭い」指摘をするかで競い合うことになる。
政治的正当性も責任もない人たちが、実質30分程度の間、相手の話にろくに耳も傾けずに「議論」という名の「吊るし上げ」をするだけで廃止を決めるという手法が、果たして「国民目線」なのだろうか。
もちろん結果だけ見れば、妥当なものも多いだろう。
しかし、意思決定プロセスの透明さとして重要なのは、議論を一般公開するという「物理的」な透明性よりは、どのような基準にしたがって判断された結果なのかという「論理の透明性」の方だろう。
ムダをなくすと言えば単純に聞こえるが、世の中そんなに単純ではない。
本来あってはならない純然たるムダは、こんな公開の場でワイワイやるよりも、会計検査院のようなプロ集団が現場に踏み込んで「摘発」すべきものだ。
これに対して、事業仕分けにおける「ムダ」の判断は、上記の巡回劇と若者自立支援事業の例のように、きわめて政策的なものだ。
したがって、その判断に当たってはきちんとした「物差し」が用意されなければならない。
切り捨てるべき事業の基準とともに、財政再建のために、どれだけの予算を切り込む必要があるのか、限られた予算の中で、どのような政策を重視するのか、といったことが重要だ。
予算をカットするだけで財政は改善しない。
予算をカットして政府支出を抑えれば、結果として経済にとってはマイナスに働く。税収もマイナスなる。
中長期的に財政を改善させ、国民の生活水準を引き上げるためには、政権としてどういう成長戦略を描き、何に重点投資するのかという「スジ」が一本通っていなければならない。
それを基に、事業仕分けに当たっての判断基準が明確にされ、各仕分け人の個人的信条にかかわらずそれが共有され、尊重されなければならないはずだろう。
その点でみれば、この事業仕分けはブラックボックスそのものだった。
各仕分け人による「廃止」、「予算の○%削減」という「評決」が、どんな基準を適用して導き出されたものか、見ている国民には皆目わからなかった。
しかも、○%の予算削減という、一見具体的な判断も、その削減幅がどのような根拠で示されたのかまったくわからず、家電量販店での値引き交渉のようなノリとしか思えなかった。
本来ならば、「事業仕分け基準」なるものを事前に閣議決定し、対象事業の洗出しから事業仕分けの判断までの基準を明確にすべきだった。
しかし、行政刷新会議の設置根拠となった閣議決定では、事業仕分けの基準らしきものは何一つ示されなかった。
なので、いくらプロセスを「公開」してもらっても、各仕分け人の判断の妥当性などを検証することはまったくできない。
しかも、情けないことに、議論のほとんどは、予算査定で財務省主計局の主査レベルでやっているような小役人の議論ばかりだ。
どんな事業でもアラはある。
それを改善しつつ将来に向けてナショナル・プロジェクトとして育てていくのか、それとも国家戦略上は重要でないものとして打ち切るのか、それは高度な政治レベルの判断だろう。
ところが、事業仕分けでは、政治主導の名の下に、これまで財務省主計局の主査レベルでやっているような議論を、政治家までもが得意げにやるようになってしまったのを見て、日本が「戦略なき国家」となっていく危うさを感じたのは私一人ではないはずだ。
いったい誰が国家戦略を予算に反映させるのだろうか。
その役割と責任を負っているのは、これまでも、そして、これからも主計局ファミリーに決まっているではないか、という主計官僚や過去官僚たちの高笑いが聞こえてきそうだ。
実際、今回の事業仕分けでは、仕分け事業の選定から、実際の仕分け会場まで、財務省主計局の振付けが目立った。
このため、「民主党は、こんなことですら財務省におんぶしてもらわないと仕事ができないのか」というイメージをさらに強める結果となってしまった。
さらに、明らかとなった根本的な問題は、これだけ世の中を呆れさせた事業仕分けをもってしても、その成果たるや主婦のヘソクリ程度にもならないということだろう。
小泉政権下の2006年の骨太方針は、団塊の世代の「退役」によって貯蓄の取り崩しが始まると考えられている2011年度までにプライマリーバランスの均衡を達成するためには、11.4から14.3兆円を「なんとかする」必要があるとされていた。
これが達成できなければ、国の借金は雪だるま式に増え、日本全体が夕張市のようになる国家破綻の坂道を転げ落ちるかもしれない、ということだった。
「なんとかする」というのは、一生懸命に歳出を削減し、どうしても埋めきれない場合は増税で賄うということだ。
世界経済がなお厳しく、税収の「上がり」が減る中で、この「なんとかする」必要のある額は、その上限か、さらに多い額になっているかもしれない。
口を開けば小泉改革を非難する民主党政権だが、この骨太06に見合うような、持続可能な国家のあり方に関する青写真は何一つない。
だから、いつまでに何を、どこまでやればいいのかという指針を、各大臣、各省に示すことができない。せいぜい、麻生政権よりひどくならない程度、くらいの目安しかない。
なんと志の高いことだろう(笑)。
このため、結局、この刷新会議のように、到達点もはっきりしないまま、無手勝流で、手当たり次第に、場当たり的にバラバラと進めていくしかないのだ。
補正予算の執行停止では、3兆円弱の節約をしたが、これも結局は2次補正で使い切るだろう。
刷新会議でどの程度切り込めるかは分からないが、冒頭で書いたような粉飾が目立つので、実質的には期待値を上回ることは難しいかもしれない。
民主党がマニフェストで約束した政策の実現に必要な額には遠く及ばないだろう。
民主党マニフェストによれば、その完全実施のために必要な額は16.8兆円。
既存予算の斬り込みができずにこれをそのまま実施するとすれば、国家財政の持続可能性を維持するためには、骨太06で示された額と合わせ、少なくとも28兆円、「なんとかする」必要があることになる。
消費税1%で約2兆円の税収になるので、すべて消費税で賄うとすれば、それだけで14%アップする必要があり、結果として19%程度の消費税率になるだろう。
これで、消費税率だけは西欧並みになるわけだ。
何というバラ色の未来だろうか(笑)。
この事業仕分けのように、主婦感覚で「切り詰める」努力はそれはそれで結構だが、それが真に有意義なものとなるためには、小泉政権が示したような国家再建の大きな道筋がはっきりしていなければならない。
向かうべき大きな方向感覚がないままに、目の前の細かな事業にナンクセをつけているだけのような議論は、国家再建の努力が迷走していることを端的に示すものだ。
行政刷新会議の事業仕分けは、プロレスのような「政治ショー」として楽しむのならともかく、国家の行く末を見通した歳出改革、財政改革としては、国民の無力感を深めただけだった。
政治主導が発揮される場として期待されていた事業仕分けだったが、政治主導という言葉が、政治家の専横や軽挙妄動を正当化するためのものだったのかと思わせるような事業仕分けは、国家財政再建の大道を忘れた「目立ちたがり政治」の迷走を国民に印象付ける結果となってしまったように見える。
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