国民の眠れる権利が覚醒するときの新聞の役割
2009年08月08日
政権交代が現実味を帯び、自民と民主のマニフェスト比較に関するマスコミ報道が続く中、8月6日付け日経新聞に、興味深い意見広告が掲載された。
「藤沢市の私の選挙権は0.6票。あなたは何票?」というクイズのようなタイトルで人目をひくこの意見広告の趣旨は、選挙区によって一票の価値に大きな格差がある現状を打破するために、一票の不平等を容認する最高裁判事をクビにしてしまおうというものだ。
法律用語というフツーの人には発音すら正しくできない言語と、法律論というフツーの人には理解不能な(屁)理屈を自由に操れる人たちの親玉をクビにするなんて、そんな大それたことができるのかと、フツーの人たちは思ってしまうが、それは憲法が定めた国民の権利の一だ。
憲法によれば、最高裁判事に任命されると、それから最初に行われる衆議院議員総選挙のときに国民審査を受けなければならない。そして、その後10年ごとに同じように審査を受けることになっている。
衆議院議員選挙の投票に行くと、見たことも聞いたこともない人たちの名前が何人か並んでいて、不適当と思われる人にバツをつけてくださいと書かれた紙を渡される、あのことだ。
最高裁判事ともあろう人が、法律のイロハも知らない無知蒙昧な国民によってクビにされるかもしれないなんて、当の判事たちにとっては内心ウザい制度だが、国民主権を謳う憲法の番人という看板を掲げている以上、形だけでも従ったフリをしないわけにはいかない。
幸いなことに、一般の有権者にとっては、一時マスコミを賑わした鬼頭判事補の方がよっぽと有名なくらい、最高裁判事なんて聞いたこともない。
まして、個々の最高裁判事がどんな価値観を持ち、どんな判断をしてきたかなんて知るすべもない。
ということで、名前だけずらーっと並んだ紙を渡されて、不適当と思われる人にバツをしてくださいと言われても、フツーの人には判断のしようがないのだ。
本来なら国民が判断できるように、新聞が、各判事のこれまでの所業について見やすく表にしてまとめてくれるべきところだが、そんなことをしてくれた記憶はない。
だから、普通はそのままバツを付けずに出すし、ちょっと意地の悪い人なら、一つもバツがないのは癪なので、なんとなく悪役に見える名前に×をつけたりする。
しかし、日本社会にはそんな意地の悪い人はそう沢山はいないので、結局、憲法に定めるこの国民の権利は、見せかけだけのものとして、これまで存在してきた。
要は、憲法に書いてあるので、仕方がなくアリバイとして実施されてきただけだった。
現に、新憲法制定以来、この制度によってクビになった最高裁判事は一人もいない。
さらに、この制度では、最高裁判事は10年ごと定期的に国民の審査を受けることになっているように見えるが、巧妙なトリックにより、ただの見せかけだけになってしまっている。。
最高裁判事の定年が70才である一方、ほとんどすべての判事が60才代で任命されるため、任命後一度だけ審査を受ければ、もう二度と審査を受けることはないのだ。
一度クリアすれば、後は定年まで二度とこのウザい審査など気にかける必要はないということだ。
この最高裁判事の国民審査に限らず、大事な国民の権利が形骸化されてしまっている例は多い。
そもそも、55年体制の下これまでは自民党が政権を持ち続ける枠組みだったため、国会議員の選挙権ですら、ある意味、形骸化したものだった。
ところが、政権選択が現実味を持つようになったことで、やっと本当の意味で国民の権利になることができた。
そして、今度は、この最高裁判事の国民審査権も、名実ともに国民の権利として蘇るかもしれない。
最高裁判所はこれまで、国民の無知と情報不足をいいことに、この制度の形骸化を放置してきた。そして、マスコミは、怠慢を続けることで、それに手を貸してきた。
一人一票実現国民会議は、ネットの力も借りつつそこに風穴を開けることで、形骸化した国民の権利に実質をもたらそうとしているのだろう。
情けないのは、これは本来マスコミがきちんと行わなければならないことなのに、それが「意見広告」という形でなされているということだろう。
挙句の果てに、多少は割引があるのかもれしないが、この意見広告から収入さえ得ているのだ。
本来、新聞がまず取り組むべきことをサボっていて、仕方がなく他の人たちがやろうととしたら、それから金をとるというのでは、報道機関の責任などあったものではない。
この意見広告では、次の総選挙で審査を受ける9人の最高裁判事のうち、那須弘平、涌井紀夫の両氏が一票の不平等を容認している「問題判事」として名指しされている。
一方、田原睦夫氏は、一票の格差を「憲法の趣旨に沿うものとは言い難い」と判断したとしている。その田原氏とて、どうして「違憲」と言い切らずに、「趣旨に沿うものとは言い難い」という煮え切らない言い回しになっているのかはよくわからない。
そして、残りの6氏については、「不明」としている。
意見広告は、これを見やすく表にまとめ、しかも、ていねいにその表の周囲に切り取り線まで書いてあって、投票所に持って行きやすいようにしてくれている。
楽天の三木谷社長のような企業経営者が発起人に名を連ねていることもあって、「使いやすさ」まで考え抜かれているところに感心させられる。
要するにこの意見広告は、この紙を切り抜いて投票所に持って行って、那須、涌井の2氏については×をつけましょう。田原さんは無印でいいですよ、と言っているのであろう。
そして、他の6氏については、「あなたがた、ちゃんと意見を表明しないと、私たちが判断できないじゃないですか。」とプレッシャーをかけているということだろう。
裁判官は憲法でその独立性が謳われているので、なんとなくアンタッチャブルな存在だと思われがちだ。
なので、そんな人たちにこんなふうにプレッシャーをかけていいのかと訝るむきもあろうが、主権を有する国民の審査を受けることも憲法の要請なのだから、その審査がきちんとできるように意見表明を求めることも、あながち否定されるべきではないだろう。
少なくとも、過去の判決、弁護活動、役人として活動、論文などで、どのような意見を表明してきたかくらいは、最高裁判所事務局がきちんと国民に対して、ホームページなどで見やすく提示すべきだろう。
もちろん、そんなことはしていないし、なぜしないかといえば、「知らしむべからず、よろしむべし」と考えているからに他ならない。
最高裁判事の国民審査なんて、本当はなければいいと思っているのだろう。
なので、この国民会議のような活動は、眠れる国民の権利を目覚めさせようとするものとして評価されるべきだろう。
かといって、この「一人一票実現国民会議」の言うとおりにするのがいいのかと言えば、疑問がないわけではない。
一票の平等についての考え方は、最高裁判事の適格性を国民が判断するに当たっての重要なポイントの一つだろうが、決してそれだけではない。他にも重要な論点は沢山ある。
例えば、人によっては、一票の重みよりも、死刑制度を守るべきと考えているかどうか、靖国訴訟をはじめとする政教分離に対する考え方、基本的人権の保障に対する考え方などをより重視する人も多いだろう。
残念ながら、一人一票国民会議は、一票の平等という論点だけで最高裁判事の適格性を判断しようとする点で単眼的であり、ワンフレーズ・ポリティックスの小泉政治と同じだ。
やはり、それぞれの最高裁判事について、多面的な情報を中立的に提供することが重要であり、それは報道機関の役目だろう。
これまで、新聞の政治報道は、五十五年体制という枠組みの中で実質的な国民の政権選択の権利がないために、自民党の中の権力闘争というコップの中の騒動を報道することばかりに力が注がれていたように思う。
しかし、政権選択が参政権の本質である以上、政策や政権の基本思想についての国民の理解を高めることが、報道機関の本務だし、最近の新聞報道を見ると、自分が担う役割が何かを再認識しているようで、頼もしく感じる。
願わくば、最高裁番所の国民審査のような大事な権利についても、その行使がしやすくなるような質の高い報道を期待したい。
政権選択も大きく日本を変えるだろうが、この国民審査で国民がものを言うようになれば、同じくらいのインパクトを司法に与えることもできるだろう。
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