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検察OBの間でも評価が分かれる民主党の小沢元代表の秘書逮捕。
中央公論7月号が「東京地検特捜部は正しかったのか」と題して、両方の立場を代表する二人の検察OBの対談を掲載している。
検察トップの座が約束されていた堀田氏の迫力に、郷原さんが気圧され、貫禄負けしているようで気の毒だが、見かけ上の形勢の悪さにかかわらず、郷原氏の主張には、新しい社会の中で検察捜査がどうあるべきかという重要な論点を提起しているようだ。
一方のOBは、ロッキード事件捜査に携わり、法務省の官房長時代に約束された検察トップの座を蹴ってさわやか福祉財団の理事長になった堀田氏であり、朝日新聞に「検察に説明責任はない」という、あまり「さわやか」でない寄稿をして物議をかもしている人である。
もう一方は、自民党長崎県連違法献金事件という、首相の犯罪を裁いたロッキード事件と比べてちょっと「小粒」な事件しか担当させてもらえなかった郷原氏で、今回の検察の強制捜査は行き過ぎた、不当なものだという立場だ。
堀田氏が検察トップの座を約束されていた検察本流であるのに対し、郷原氏は法務総合研究所総括研究官という、なんとなく「外された」ように見えるポストを最後に弁護士に転じた人であり、検察に対するシンパシーの違いは、両者のこのような「立場の違い」によるところがあるのかもしれない。
しかし、それ以上に両者の間で異なるのは、20才以上という年齢差である。
年次が一年違えば奴隷と主人ほども違うと言われる役所で、二人の間にはぺーぺーの新米とベテラン課長以上の開きがある。
そして、そんな二人が検事として仕事をした時代背景の違いが、考え方の違いとなって表れているような気がする。
堀田さんが辣腕を振るった時代は、検察にとって「いい時代」だった。
政治家の脇が甘く、総理ともあろう人でさえ賄賂をダンボールに入れた現金で受け取るような有様だった。
高度成長時代でもあり、テレビ番組の大岡越前や水戸黄門さながらに、悪代官は後を絶たず、検察は飯のタネに事欠かなかった。
そして、収賄という犯罪の悪質さは庶民にとっても自明であり、逮捕という捜査手法に疑問を抱く者などいなかった。
獲物が大きければ大きいほど庶民は悪を退治する検察に拍手をし、検察は正義の味方としての地位を高めていくことができた。
ところが、遅々とした足取りとはいえ、政界の倫理水準がアップ、というよりは、賄賂のような「割の合わないこと」に政治家があまり手を出さなくなるようになると、中央政界での赤裸々な収賄事件というのは、もうほとんど起こらなくなった。
せいぜい、田舎ものの知事や市長が公共事業がらみで「割りの合わないこと」に手を出す程度だ。
郷原氏が担当した自民党長崎県連の事件も、私腹を肥やすための贈収賄事件ではなく、公職選挙法違反事件だった。
このように、脇の甘い政治家をお得意様として続いた検察黄金時代が終わると、話はそれほど単純ではなくなる。
政治のルールも複雑で技術的になるし、その悪質性も、袖の下で私腹を肥やす悪代官のように素人に分かりやすいものではなくなる。
政治の仕組みが整ってくると、政治を良くするための手法も、これまでのように「悪い奴を鉄格子の中にぶち込む」という単純明快な手法で果たしていいのか、という議論が出てくる。
そんな中で、「鬼の特捜」というペンキの剥げかかった看板を掲げ続けようとすると、いきおい、人々が「微妙だなー」と感じるような事件に手を出すことになってしまうのだろう。
堀田氏は、政治資金の透明性を確保するという政治資金規正法の目的は重要であり、せっかくできた企業による議員個人への献金の禁止というルールを実効あるものにするためにも、今回の強制捜査は必要だったという。
政治資金規正法の目的は民主主義にとって大事なものであり、それを実効あるものにしていくことが重要だということに疑問を持つ人はいないだろう。
しかし、多くの人が疑問に思っているのは、それを検察という権力組織が、この政治的にデリケートな時期に、逮捕という「野蛮な」手法を用いないと実現できないことなのか、それが一番ベストなやり方なのか、ということだろう。
議会政治の正当性に関することは、本来、議会政治の中で自主的、自立的に糾すという努力が先行すべきであって、頭ごなしに検察がいきなり出て行って関係者を鉄格子にぶち込むというやり方が、本当に政治に自浄能力をつけさせるやり方なのだろうか、という疑問だ。
この点に関し、堀田氏の説明からは残念ながら、議会政治を育てるという発想はまったく感じられない。
「検察が動かないと何も変わらない」という堀田説の根底には、数々の政界汚職事件を担当「することができた」時代に生きた検事に共通する、「政治家なんて所詮みんな腐った連中だ」という考えが潜んでいるのかもしれない。
これに対し、郷原氏の考えは、時代が変われば検察の役割も変わるべきだし、政治がらみの事件で、なんでもかんでも検察が逮捕権を振り回していると、政治が自浄能力を身に着けていくことを妨げることになる。
政治が自ら正すという意志も能力も見せないときに初めて、検察は強制捜査の刀を果敢に抜くべきである、という考え方のように見える。
堀田氏の考えを検察積極主義というとすれば、郷原氏のそれは検察消極主義ともいえるものだ。
これからの検察の役割を考えるとき、昔のような「豪腕捜査」で単純、明快に事が片付く時代は既に終わっているというべきだろう。
なので、贈収賄といった事件でもない限り、法律に違反しているという一事をもってなんでもかんでも検察の強制捜査で解決しようとするのではなく、「本来やらなければならない人たち」の手によって正される見込みがないときに限って、一罰百戒の意味を込めて検察が乗り出すということを基本にすべきだという、郷原氏の見解の方が合理的だし、政治の自浄能力を高めるためにも必要なことのように思える。
ただ残念なことは、郷原氏の主張がなにかと民主党の「肩を持つ」ためのものであるとか、政治資金規正法が形式犯だから違法性が低いと主張しているかのように捉えられていることだ。
違反が技術的、形式的かどうかと、事の重大性は必ずしも関係はない。
政治資金規正法違反は、形式犯とはいえ、議会政治の公正という国政の大本を歪めるものであり、問題としては大きい。
だからこそ、形式犯としては重い法定刑が規定されているのだろう。
しかし、、政治資金規正法というルールと、それを実効あるものにしようとする刑事罰は、ともによりよい政治を実現するためのものだ。
だとすれば、どのようなやり方をとればもっとも法の趣旨にかなうかどうかという刑事政策的な視点を捜査当局が持つことは必要なことだし、そのための権力行使に関して捜査当局が説明責任を負うのは、民主国家として当然のことだろう。
この点について、堀田氏の見解に多くの国民は違和感を持つだろうし、自らが理事長を務める財団の名前とは裏腹に、やっばり旧体質の権力組織の人間なんだなーと思った人は多いだろう。
その一方で、今回の件に限って言えば、じゃあ検察が政治の取組みを見守っていたら、きちんと自浄されたかと言えば、渦中の本人が、ロシアの前大統領のように院政を敷いている上に、未だにきちんとした説明すらしないのを見ると、「そもそも政治家に自浄能力などないのだ。」という検察の高笑いが聞こえてくるようだ。
堀田氏に言わせれば、「所詮、こんな連中なのだから、やっぱり検察がガツンとやらないと、何も動かないのだよ、ちみー。」ということなのだろう。
今回の検察の「デリカシーのないやりくち」に疑問を感じている多くの国民にとって、何よりも悔しいのは、そういう堀田氏に対して、すかっと反論できないことだろう。
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